情報と空気感 / 終末の高井戸

CM制作会社に入り初めての撮影後、テレシネ・カラコレを終えたところで、撮影技師が「がっかりした? あんなに時間かけて撮影しても、後でこんな風に色を調整すると知って」と微笑みかけてきた。CMの撮影の場合、おおむね1カット1時間かけて照明を作り込む。そうまでして撮影しても、現像後にカラコレ、編集時にもカラコレ…後処理で画を追い込んでいく。こういう事情を撮影技師は自嘲したのである。

「でもね、ちゃんと撮っておかないと後でどうにもならないこともあるからね」と続けた。後処理がデジタライズされた今日、この言葉の意味するところを見失いがちになる。要らないものは消し込み、面倒なものはCGなどをコンポジットすることで対処すればいい。そういう気分でいると、どこかで しくじることとなり、この言葉を思い返すはめとなる。

河津太郎という03年の資生堂アネッサ(橋本麗香)などを撮ったカメラマンがいる。kodakのHPにて、オリジナルネガの大事さや情報をフィルムにどう持たせるかを論じていて、なかなか面白い。ここで「空気感」について触れている。このことは、一般の人はまったく意識しないので、少し書いておく。例えば ミニチュアというと一般の方はウルトラマンの足元を思い浮かべようか。そうして古くさい技法と想うだろう。映画ブログでもそういう間違った認識を散見する。例えばウルトラマンは抜けが書き割りであるけれども、これをビルの屋上でセットを組めば、抜けの空をそのまま活かすことが出来る。そうすると当たり前だが「抜け」がちゃんと抜ける。(何年か前に北陽の虻ちゃんが巨大化するCMがあったが、あれはこうして撮られている) Autodeskのdiscreet(合成用編集機)のwebサイトを見ても、米国映画のVFXで案外ミニチュアを使っていることがわかる。これらは撮ることで「空気感」を得られることを期待してのことである。CGが隆盛を極め、後処理であれこれ出来る今日にあっても、それでもなお「撮る」というのはあいかわらず重要なのである。 

このようなことを書くのは、撮り損じた写真の補正に苦心したからで、CMをドロップアウトした今となっても、件の言葉を思い返すこととなる。仕方なしに色を捨てたりコントラストを付けたりで誤魔化す。すると煙突の煙が禍々しくなり、終末っぽくなったので諒としておく。