櫻の園 / コミック雑誌なんかいらない / NCP

中原俊の「櫻の園」(90)は、中島ひろ子という地味な顔立ちの子が主役である。主役を演じる顔をした者が主役を演じた方が映画は安定するだろうから、「櫻の園」は不安定であやうい映画となる。このあやうさが「櫻の園」の魅力であり、それにより「櫻の園」を群衆劇として成功させているように想う。"誰の映画"というわけでもない不安定な映画、例えば「台風クラブ」(85)なんかもそうだけれども、その手の青春映画には …他に想い浮かばないや…なんかあったらコメント欄にどうぞ。…出演者全員よく知らないって映画に古厩智之の「まぶだち」(01)がある。この映画、息の詰まるような切迫感がいい。…無名というのは、時にそのこと自体が魅力になるのかもしれない。

81年、日活にいたプロデューサー 岡田裕が「ニューセンチュリープロデューサーズ」(NCP)を作り、中原俊根岸吉太郎廣木隆一金子修介らロマンポルノやピンク映画の監督に一般映画を撮る機会を与えていく。中原俊も岡田裕企画・NCP制作協力の「シャコタン・ブギ」を撮る。件の「櫻の園」は岡田裕がプロデューサーであり、岡田らが89年に設立する「アルゴプロジェクト」の作品である。

● 2003.12 阿佐ヶ谷 (本文と関係なし)

滝田洋二郎の「コミック雑誌なんかいらない」(86)もNCPの作品。これは滝田にとって初めての一般映画であり、同時にピンク映画でコンビを組み続けた脚本家・高木功との唯一の一般映画となる。ピンク映画自体、滝田は86年いっぱいで足を洗い、以降「愛しのハーフ・ムーン」を経てフジテレビ出資・一色伸幸脚本の「木村家の人びと」「病院へ行こう」etcを撮っていく。この過程で"「痴漢電車」シリーズの滝田"を払拭していき、やがては予算規模の大きな映画を任せられるようになる。

「映画監督ベスト101 日本篇」(新書館・1996)の滝田洋二郎の項は、こう締めくくられている。

長年、滝田とコンビだった高木功は、その後、小説家に転向するが、生活に困窮し、不安神経症を病み、九十四年、三十八歳の若さで死去。訃報を聞いた滝田は泣き崩れたと言う。

陰陽師」を見た際にふと、この一文を想いだした。

滝田洋二郎のインタビューの類を一切読んだことはないのだが) ピンク映画という 劣悪な環境で撮影しなければならず、そうまでして作りながらも日陰の存在でしかない不遇の境遇から這い上がりたい、そういう焦燥感に追われながら滝田は「コミック雑誌なんかいらない」に挑んだのではなかったか。新潮社の天皇斎藤十一曰く「書かずにいられない何か、つまり“デーモン”を生まれながらに心に秘めているのが物書きの資質だ。これがなければ、いいものは書けない」 滝田の「コミック雑誌なんかいらない」には "撮らずにいられない何か"が ばちばちと音をたてているように想う。これは阪本順治の「どついたるねん」がそうであるように、撮る者にとっての青春映画でもある。


関連エントリ 「高木功と滝田洋二郎」(2009-02-24)
ピンク映画関連 「ピンク映画と国映・佐藤啓子専務」 「ラストショー / 亀有名画座」 「立石ミリオン」