安コーヒー屋でブコウスキーを読みながら、「ヒッチャー」のジェニファー・ジェイソン・リーを想い出す。

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なんとかかんとかed by 関内関外日記「『死をポケットに入れて』チャールズ・ブコウスキー/中川五郎訳」(2005-08-09) ←のリンクこそ、このエントリのすべてである。以下に書かれるものは、まったくの余談に過ぎない。 


みじめったらしい部屋で読むのも何だしなと、ブコウスキーの「死をポケットに入れて」をわしづかみにして、サンマルクカフェに入る。私の中では色川武大狂人日記」と並ぶものになるかもしれない。そんな書籍を読むのだから、タリーズに行ってもいいくらいだ。  

河出文庫を買ったのはいつ以来であろうか。背のデザインが変な黄色になってからは初めてのはず。以前の白の"ぬめっ"としたカバーは好きだったのだが。松浦理英子の小説には、あの"ぬめっ"としたカバーがほんとうによく似合っていたじゃないか。

はじめて買った河出文庫は何だったかといえば、「ブルックリン最終出口」。著者の名前はなんど目にしても憶えられない。映画公開に合わせての出版であったためか、帯かカバーにはジェニファー・ジェイソン・リーが印刷されていた。高校の頃、ゴールデンウイークの前、釣具屋のとなりの本屋で買ったのだ。

わたしたちは蜃気楼に向かって移動していく。わたしたちの人生もまたほかのみんなの人生と同じように無駄に費やされていく。」(105頁)

「どついたるねん」の相楽晴子、「ラブホテル」の速水典子、それから「ヒッチャー」のジェニファー・ジェイソン・リー、あの頃の私の女神たち。そして、それぞれが「かげ」の女たち。さしずめ相楽晴子は"影の女"、速水典子は"陰の女"、ジェニファー・ジェイソン・リーは?

ヒッチャー」のジェニファー・ジェイソン・リーはひたすら悲惨だった。こんなにいいことのない人生があったものか。この映画はホラーであって、人生を語る映画ではないのだが、それにしてもジェニファー・ジェイソン・リーの、何か起きるのを待ち続けているだけかのような人生はあわれに想えて仕方なかった。「ホームボーイ」のデブラ・フューアーにはささやかな夢があったけれど、この女には何もないじゃないか、と。*2

戻ってくるために、わたしは出かけるのだ。確かに、確かに。そこが肝心だ。そうだろう?」(157頁)

隣の座席。最初は老夫婦。男の方は片方の手の自由を失っていた。続いて年増女。アイスコーヒーを瞬く間に飲み干すと、ストローでじゃらじゃら氷をかき混ぜては、ストローをちゅっとすすった。最後に女同士。趣味のいい服を着た女とそうでない女。この女たちも長居することはなかった。みんないい客である。他にすること、行く場所があるから、長居などしないわけで、すなわち、いい人生でもある。( ドリンクバーで602頁もある町田康「宿屋めぐり」を読み切ってしまう私はなんなのか。

いよいよ読み終わろうかという頃合い、ここでブルースでも流れはじめれば気の利いた日曜日なのだが、そう想ったところで店内には相変わらずのイージーリスニングが流れ続ける。安コーヒーをすすり切り、私は店を出る。ブルースなんて一曲も知らない。仕方なしにそれっぽいキース・リチャーズの「slipping away」を脳内で鳴らし、なんとかハイスクールと英語で書かれたスポーツバッグをかつぐ女たちの後ろを、とぼとぼと歩く。



自らを作家へと導いて行くには、直感を信じて行動することだ。そのことが、人を養い、言葉を養い、そして死に立ち向かわせてくれる。何をするかは人それぞれで異なっているし、人それぞれで変わっていく。わたしの場合、かつて常軌を逸した飲酒、正気を失うまで飲むことを意味していた。そのことがわたしのために言葉を研ぎ澄ましてくれ、それを表へと引き出してくれた。それにわたしは危険なことを求めてもいた。自分自身を危険な状況に追い込まずにはいられなかった。相手は男たちであり、女たちであり、自動車であり、賭け事であり、飢餓であり、ありとあらゆることだった。それが言葉を育ててくれた。  (160頁)

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

*1: 06-04-18 JR秋葉原駅

*2: この映画ではジェニファー・ジェイソン・リーの過去などろくに描いてはいないのだが、見た当時、中学生だった私は勝手にそれを想ったのだ。