1984.08.20

出不精の子供であった。夏休みは「アフタヌーンショー」を見るための日々であった。そんな子供であった。失踪した家族に呼びかける特集、スタジオに殺人現場のセットを組んでの検証etc、稲川淳二の生き人形の語りもこれでみたと記憶する。来る日も来る日もスプライトを飲みながら「アフタヌーンショー」を見ていたのだ。本州のサイハテでは「笑っていいとも」は16時からで、「アフタヌーンショー」は14時からであった。中学にあがり、ホライズンなる教科書で「afternoon」が正午の謂いと知った時は衝撃的であった。呉一郎が九州のキチガイ病院で受けたのと同じくらいの戦慄であった。あれは本来、あなたの知らない世界の裏番組であったのか!と。(嘘だけど) 

私の両親は歳の離れた姉たちを育てるので子育てに飽きてしまった。あるいは親、というものを姉たちを育てることで満喫したのかも知れない。一学期の終業式直後の夜、両親と姉たちは映画に出かけ、ボウリングを投げるのを恒例としていた。その頃、私は祖母と家に残り、おおむねラジオでプロ野球のオールスター戦を聴いていたのである。とはいえ、気まぐれに親らしいことをなどと、私の親らしからぬことを想いたち、私をドライブに連れ出すことがあった。

昭和五十九年八月二十日、私たち家族は秋吉台にいった。よりによって金足農業vsPL学園のその日にである。

その夏、私は秋田県金足農業を応援していた。なにしろ金足農業である。彼らはみんな百姓の子供たちに違いない。彼ら自身も卒業後は阪急ブレーブス住友金属などにはいかずに、みんな百姓になるのに違いない。そうだ、みんな百姓の子供たちなのだ。みんな百姓になるのだ。そんな高校生たちを応援せずに、どこを応援するのか。その百姓野球部が準決勝第二試合で桑田清原のPL学園に挑むのである。

私たち家族はカーラジオでこの試合を聞きながら国道二号線を西進した。一回の表に金足農業は1点をあげそれを守りつづける。五回の表裏終わって、1−0で金足農業がリード、六回にPLが追いつくも続く七回の表にまた1点をあげ突き放す。そんなふうに甲子園屈指の名勝負が進む。私たち家族も国道から県道を進む。

そんな頃合いに秋吉台の鍾乳洞に着いたのである。鍾乳洞と金足農業vsPL学園では当然後者の方が面白いに決まっているではないか。おまけに鍾乳洞はいつまでたっても鍾乳洞であるが、金足農業vsPL学園は一回性のものである。来年の春にはみんな田植えをしているのである。私は駐車場でついでにもう2イニング聴こうと提案したのだが、工場労働者の父と金融機関で働く母は相手にしてくれなかった。しぶしぶ車をおり、鍾乳洞をめぐった。そうこうして車に戻る。あのまま金足農業が逃げ切ってくれたことを期待しながら、カーラジオがかかるのを待つ。仕合はとっくに終わっており、しばらくしてPL学園が逆転勝ちしたことを知り、ふて腐れた私を乗せたカローラカルスト台地に向かった。

その後、金足農業の水沢投手は百姓にはならずにプリンスホテル、相方の長谷川捕手は百姓にはならずに青山学院大に進んだ。プリンスホテルに青山学院…青山学院って、あんた、背信行為だろう。百姓とは言わない。せめて秋田県庁や町役場だったら、どれほど私は救われたであろうか。幼き私の妄想をどうして呉れよう、川崎さん。

[類似エントリ] 「おっぱい甲子園 '87」(2009-02-10)

[資料] 「みちのくの夢を打ち砕いた一発
     you tube1984年全国高校野球 準決勝 PL学園VS金足農 桑田逆転2ラン
     asahi.com高校野球 全国高校野球選手権大会 PL学園―金足農業

[強者に挑み すんでの所で逃した栄光] 87年F1ポルトガルGP、93年ウインブルドン女子決勝ノボトナ−グラフ、
   94年大学ラグビー選手権準決勝同志社大学明治大学、98年弥生賞徳吉孝士…なんやかんや。