相米慎二「台風クラブ」と、それからの十日間

気だるさと高揚感。東北地震からの十日間の、私をとりまいた空気感である。なんだかんだで毎日出勤し、缶コーヒーをすすりながらエレカシを聞いて、ときおりustreamNHK原発ニュースを見る。仕事は遅々として進まず、だからといって世の中自体の動きがそんなのだから、なすすべもない。会社にはいるものの、遊んでんだが、仕事してんだかわからない、ustを通じてみる放射能だか放射線だかの恐怖にはいまいち現実感が持てないまま、時間を喰い潰していく。そんな感じの空気感。

地震から十日目の夜、映画「台風クラブ」を見ながら、作中の中学生らと同じ空気感にいることに気づく。気だるさと高揚感、そんな感じ。その夜に読んだ飲めヨーグルト氏のブログエントリ「それからの十日間」にも、文体のせいかもしれないが、同じそれを感じた。南関東で暮らす、少なからぬニンゲンは「台風クラブ」のような日々だったのかもしれない。

ここ数年、春になると相米慎二台風クラブ」「ラブホテル」を見返している。ともに昭和六十年八月に公開された作品である。高校生の頃は「ラブホテル」>「台風クラブ」であった。三流私大生の頃もそうであった。それが齢を重ねるうちに、いや敗北を重ねたあげくに終わっていながら終われずにいるうちに「台風クラブ」>「ラブホテル」となっていいた。 …それにしてもなぜ高校生の頃、なぜあんなにも「ラブホテル」に魅了されたのか。

本州の西端では金曜深夜、東映セントラルや日活映画を放映していた。「ラブホテル」を見たのはその枠によってであった。平成の初めの頃のことである。

一人の人間の一日には、必ず一人、「その日の天使」がついている。その天使は、日によって様々の容姿をもって現れる。少女であったり、子供であったり、酔っ払いであったり、警官であったり、生まれてすぐに死んでしまった犬の子であったり。心・技・体ともに絶好調のときには、人には見えないもののようだ。逆に、絶望的な気分に落ちているときには、この天使が一日だけ、さしつかわされていることに、よく気づく。   中島らも 「その日の天使」(「恋は底ぢから 」1987年収録)

名美&村木モノのひとつである「ラブホテル」はまさに「その日の天使」の映画である。零細の出版社を営む村木、経営が行き詰まり、取り立てに来たやくざに妻を目の前で犯される。自暴自棄になり死のうと想い、ホテトル嬢を買って道連れにしようと企てる。そしてラブホテルで出会うのが名美……。こんな筋書きである。天使といってもメルヘンチックとは限らない。ホテトル嬢だって天使になる。だからこの世は捨てがたい。…名美を演じる速水典子の美しさもあって、一丁前にそんな映画に私は惹かれた。寺田農を【てらだのう】なんて読んでいるくせに「ラブホテル」をマイフェイバリットな映画として、学校で喋りまくったのである。

とはいえ、そう都合よく、速水典子は現れはしない。自分の生活が空疎であると気づき、無名のニンゲンとして生きて、この先、忘れ去られるようにして老いていくことが決定的になると、「ラブホテル」にすら甘い希望を見出せなくなったに違いない。私の虚無の前に、速水典子は無力化したのである。かわりに「台風クラブ」に惹かれていくのであった。

取り戻しようのない思春期の、すなわち、前の席にすわる女子の背中の、ブラウス越しに薄く見えるブラジャーを時がとまったように見ていられる時代、オートリバースでB面に変わるのをじっと待つ合間に見つめる中空にブラウスの隙間から見えるブラジャーを想い浮かべる時代、そう、その日の天使がありふれていた生活の時代、「台風クラブ」はそんな時代に私を誘う。

台風の接近により、受験を控えた田舎町の中学生たちは感情を高ぶらせ、少しずつ狂っていく。プールに男子を沈める、鼻に鉛筆を刺す、女子同士の性交渉。極めつけは好きな女子生徒(大西結花)の背中にアルコールランプで熱した金属をおとす男子、その光景にけたたましい笑い声が響く教室。 …そんな風に狂っていき、いよいよ台風が到来すると、学校に取り残された生徒たちは青い乱痴気さわぎを始める。

好きなあまり女子を傷つける男子は、goldhead氏のタグではないけれども「人生をかけている」のである。台風の最中、ついには大西結花を襲う。*1「ただいま、おかえり、おかえりなさい、ただいま、おかえり、おかえりなさい」とつぶやきを繰り返しながら。

恋愛が宗教にまでなるのは初恋だけである。とにかく自分にとって、この愛がすべて、なのだ。相手に愛情を受け入れてもらえない場合、自分の全存在を否定されたことになる。」 栗原知代(ロートレアモン「マルドロールの歌」集英社文庫解説))

そんな感情がむき出しにされる。否定された自らを取り戻すために、どうしようもない感情が暴風雨の中で狂気として、しかし、たんたんと展開される。それは他の生徒も同様である。下着姿で雨の中、踊り狂う。終いにはたんたんと自死の準備をする者も現れる。相米慎二というと過度の長廻しだが、この自死の準備はノンモン(無音状態)の過度の長廻しとなっている。風の止んだ朝、乱痴気さわぎの時が過ぎた気だるさを、この長いノンモンが永い時として演出する。

*1:その際、驚いたことにフルネルソンを極めるのである。