Blue Valentine
生きるということ。そして死ぬということ。誰ひとりそこから逃れることはできない。私たちはこの世界にたった一人でやってきて、たった一人で去っていくのである。そのほとんどが寂しく、おびえて、人生の大半を無駄に送るのだ。 (ブコウスキー「狂った生き物」より)
この映画の人生も例外ではないようだ。「ブルーバレンタイン」、口唇性愛をさせそうな男*1の子供を身ごもった女は、口唇性愛をしてくれる男と結ばれる。けれども結局、うまくは行かない。そんな映画である。
映画の冒頭、男は娘と一緒になって、テーブルに直接乗せたレーズンを手を使わずに食べて遊ぶ。女はそれを嫌がる。この些細なシーンに、女と男の間の、どうしようもない溝が描かれている。決定的…という程のものではなく、違和感をうむ程度の、である。この程度がこの映画の妙である。だから、ふたりは時間をかけて瓦解していく。たいしたプロットポイントも持たずに瓦解していくのである。
この映画で面白いと想ったのは、会話の中心者をフレームの真ん中に収め、会話の相手をフレームの外に置くことで、その会話があたかもインタビューのように機能するカットが幾つかあって、告白を強いていく仕掛けとなっている。そのようにして、劇的にではなく、なにげなくふたりが出会う以前の来し方を観客に見せていく。
時間が本当に もう本当に / 止まればいいのにな / 二人だけで 青空のベンチで / 最高潮の時に (ハイロウズ「青春」より)
夜の路地、店頭のハートの形をした飾りの前で、女は男の弾くウクレレに合わせて、でたらめなタップダンスを踊って見せる。そのシーンはまさにそんな最高潮の時に想える。見ている私までずっと見ていたい、そんな気にさせるほど、仕合わせに充ちたシーンである。
性愛や求婚でないシーンが最高潮の時だなんて、素敵な映画ではないか。
ここから先は違う話
封切り日にこの映画を見たのは、会社にいる映画出身者がこの映画の画を賞賛していたからである。長玉で人物を追っかけまわす、その映画らしい画の素晴らしさを、である。
最初に入った会社はCMをこしらえる会社であったのだが、最初についたプロデューサーは、CM制作会社から映画の助監督となり、再びCMに舞い戻った男であった。大嫌いであったのだが、彼から聴いた話を忘れられずにいる。
それはこういう話である。映画の撮影現場にて彼はカチンコを入れていた。そのシーンは尻ボールドであった。よーいアクションでカチンコを入れるのではなく、すなわちカットの頭でカチンコを打つのではなく、カットの終わりでカチンコを入れるのである。複数の出演者の演技を長玉のズームアップで追っかける、そんなシーンである。画コンテがきっちりと書かれて、おまけにたいして廻さないCMと違い、カメラは自由に動き、1テイクが何十秒に及ぶ、そんなシーンであった。
カット!といわれる度に、彼はカチンコを差し出すのであるが、撮影技師より「そこじゃない、もっと上手!」などと、カチンコを入れる場所を指示される。何テイクも見当違いなところにカチンコを差し出してしまう。カメラがどこをフレーミングしているのか分からないためである。喋っている出演者をカメラが追っていれば、どこを撮っているかは容易にわかるのであるが、そのシーンのカメラの動きはそうではなかったのである。
そうして撮影後、「演技をちゃんと見ていないから、おれがどこを撮っているかわからない。だからカチンコを変なところに入れてしまうんだ」と撮影技師に言われるのであった。
それだけの話である。それだけの話であるのだが、このような話の積み重ねが、私の映画に対する畏敬になっている。撮って3日の世界のニンゲンにとって、ひと月以上撮り続ける連中への畏敬である。
[類似エントリ]「映画・CM・映像」(2009-09-06)