blue 〜魚喃キリコ・本調有香・安藤尋・川内倫子・鈴木一博


安藤尋「blue」2003


手をつないで走り出す制服の仰角の少女ふたり …映画「blue」のキービジュアルをみるとなぜか渋谷警察署向かいの山下書店を想いだす。その頃、やたらとそこにいっていたのである。おそらくそこで川内倫子の「blue」の写真集を繰り返し開いていたのであろう。これをポストカードにした宣材がとても好きで、会社のパーテーションにずっと貼っていた。それがなくなると自室のドアに貼っていた。すなわち乙女チックなまでにその写真が好きだった。

過日、「ジョゼと虎と魚たち」(渡辺あや)のシナリオを読もうと想いたって「03年鑑代表シナリオ集」を手にすると、一緒に本調有香「blue」のシナリオが収められていた。安藤尋による映画の脚本である。夢の超特急・湘南新宿ラインの車中でいっきに読んだ。「桐島」「遠藤」…名字の呼び捨てで呼び合う硬質なトーンが心地よかった。あだ名で呼び合う「あの花」をちょこちょこ見ている最中ゆえに、余計にそう想えた。頭の中は「blue」一色となった。そんな私を帰宅後に待ち受けていたのは「blue」ではなく、中島貞夫「実録外伝 大阪電撃作戦」であった。松方弘樹が最高に狂っていた。

日をあらためても「blue」熱は冷めることなく、仕方なしに魚喃キリコの原作を買った。会社の行き来の総武線で読むのはもったい気がした。そんな絵柄だった。桐島は遠藤をモノローグでは「まさみちゃん」と呼んでいた。この原作を本調有香はちゃんと映画にしている。設定・発端→プロットポイント→中盤・葛藤→プロットポイント→結末・解決の構成、主人公の内部/外部の目標の設定etc。後者をいえば、桐島の、遠藤に触発されて画を始める(美大進学を志望する)と卒業後も遠藤と一緒にいたい…が、内部/外部のそれである。内部のそれは原作にはない。それを足すことで、映画の体裁を構築している。

DVDを借りる。見るのは何年ぶりのことか。撮影は鈴木一博。人物の顔の視認があやしい程に光量を不足させたカットが多く、ゆえに制服のシャツの白がたってくる。前世紀末、瀬々敬久による国映のピンク映画…「雷魚」の斎藤幸一、「汚れた女」の鈴木一博の撮影が好きだった。この映画の鈴木一博もDVDで見ておいてあれだが、ほんとうにいい。

映画の最後、夜通し語らう市川実日子小西真奈美。国道、モール街、海辺、自販機の前、再び国道。ふたりをかなりの引き画で撮ってまわる。うっすらと白いシャツが映えて人物を感じさせる程度で、ほとんど真っ暗なカットがあったりもする。ずっと見ていたいシーンがゆっくりと続いていく。そのふたりにとっても、観ている方にとっても「時間が本当にもう本当に/止まればいいのにな」(ハイロウズ/「青春」)である。

明け方、始発バスが来る頃になってようやっとふたりの顔が視認できるようになる。始発バスめざして、市川実日子小西真奈美が手をつないで走る、そのシーンに「愛の新世界」の鈴木砂羽片岡礼子の、早朝の渋谷を駆けるシーンを想い出したりもする。走るふたりをカメラが併走して追う。大友良英の音楽。その移動がぱたりと止まり、ふたりはフレームの外へ。最高潮の時の終わり、時間は止まることはない。暗転、モノローグの後日談、エンドロール。

本調有香のシナリオではバスの車中のシーン、学校、新学期と3つシーンが続くのだが、ここをばっさりと切っている。これにより上記のカメラの移動と静止が余韻となって、読後感をよくしている。映画の演出・編集・撮影とはなにか、である。