五社英雄備忘録

鬼龍院花子の生涯

「『鬼龍院花子の生涯』の撮影に入るときには、あの子はもう病気だったんですよ。それで、撮影前に「仲代さん、私、病気持ちでして、ここに大きな傷跡があるんです。それで、仲代さんとはラブシーンがあるから先にみせておきます」って、パッと着物をはだけさせて、胸元の手術跡をみせてくれたんです。そのとき、これは凄い人だと思いました。わが身を削ってまで、共演者に気を遣ってくれたんですからね。」  (春日太一仲代達矢が語る「昭和映画史」第四回 「Voice」2011年12月号221-222頁)

「あの子」とは夏目雅子である。「なめたらいかんぜよ」のセリフで知られる高知九反田の侠客・鬼政の娘・松恵の役は当初、大竹しのぶであった。しかし、五社英雄の映画に出ては何をされるかわからないと、降りられる。そうして白羽の矢は夏目雅子に向けられる。この作品の監督・五社はもともとはフジテレビの社員ディレクターであったが、銃刀法違反の罪により、会社も退社、飲み屋でも始めようかと想っているところに、東映の首領・岡田茂が声をかける。テレビ出身の映画監督第一号の五社が、再起をかけてフリーの映画監督として東映でつくる、それが「鬼龍院花子の生涯」である。また夏目雅子カネボウのCMやテレビドラマで人気を得てはいたが、映画の主役をはるほどではなかった。そうしたふたりが、互いの代表作を生む。胸もとに傷跡をもつ女と、後に背中に羅生門の彫り物と、顔に刃物の斬り傷を負う男との。

テレビ出身の映画監督第1号

演出にあたって、まずは服装で意表を突いた。撮影のスタッフは、たいてい汚れてもいいようなラフなスタイルで撮影に臨む。父は、背広姿にネクタイを結んでスタジオに現れたのである。映画監督で背広姿で撮影所に現れた監督は珍しいだろう。それも、夏なので真っ白の背広であった。  五社巴「さよならだけが人生さ」講談社 67頁

テレビ局員の五社がはじめて映画を撮った際の逸話である。今日と異なり、映画とテレビとに隔絶があった時代である。現在のようなフリーランスのスタッフを集めての撮影でなく、各映画会社が撮影所をもち、撮影部・照明部・美術部etcとスタッフが揃い、同時にそこは排他的な世界であった。そこに渡世人のような風体の五社が、白い背広で映画の撮影所にのり込み、その格好で殺陣を自らつけるのである。そりゃ、怖い。

映画のスタッフは映画を「本編」と呼ぶ。映画のプライドがそこにある。私の最初の就職先はCM制作会社であったが、そこの上司は映画のスタッフを毛嫌いしていた。さる映画界の大物スターが出演するCMの撮影のおり、気をつかって映画の撮影スタッフで挑んだ。その際、CM制作会社の社員がやったなにかを、撮影助手が「ホンペンではそんなことしない」と蔑んだ。お前のギャラは誰が払うんだという話である。映画は本編、CMは幕間や上映前に流れるもの …そんな意識がある。

テレビ局員の五社が、はじめて映画を撮った当時は、もっと映画のスタッフは不遜であったろう。それどころか新興勢力のテレビに敵愾心さえあったろう。五社が映画会社に俳優を借りに行った際、テレビのディレクターと名乗ると「紙芝居屋」と蔑まれた。だからこそ、五社は白のスーツで乗り込んだのである。

色事と荒事 五社の演出

「映画監督というのは、ラブ・シーンの色事とアクションの荒事、この二つを撮ることを絶対に避けて通っては駄目だと思う。(略)色事と荒事、そこに自分のオリジナリティを持つことなんだと思う。なぜなら、それは役者がいちばん嫌がることだから。(略)監督が、それを避けて通らないとすれば、プロ意識がないのと同じことだと思う。」  五社巴・前掲156頁

「まずは相手を信用させること。じゃあ、信用させるにはどうするか。一言でいうと、自分が率先して恥をかくことなんだ。」  五社巴・前掲154頁

女優はいくら商売とはいえ、濡れ場を演じたがらない。その女優に濡れ場を演じさせるために、現場で五社は自ら演じる。「吉原炎上」の名取裕子と二宮さよ子のレズシーンも五社は助監と演じてみせた。同作品で西川峰子が狂って着物をはだけながら「(胸を)噛んでーッ」と絶叫するシーンも、ズボンをまくしあげながら胸を掴み、叫んでみせたという。
荒事でいえば、春日太一仲代達矢が語る「昭和映画史」第四回に逸話が載っている。「御用金」の撮影で崖を登るシーンがある。アングルの関係で命綱は写り込んでしまう。命綱なしで登るしかないのだが、仲代が不安がるや、「よし、おれがやってみる」と言って、五社は自ら革靴・革ジャンで登ってみせた。もちろん五社は自ら殺陣をつけられる。

職業としての映画監督

キネ旬で五社監督が長部日出雄と対談した際、その演出スタイルを「大衆迎合が過ぎる」と批判してくる長部に対し、「大衆が喜んでくれるなら素っ裸で逆立ちして玉乗りだってする」と五社が言い切ったのには震えました。  春日太一 on twitter

五社は他人に制作費を出させ、それでつくったものに、大衆にカネを払わせる、その気概のひとである。

俺が監督として年に一本のペースで映画を撮れるのは、黒澤(明)さんや深作(欣二)さんと違って、何があっても決められた日数で予算内に商品を完成し、納入することができるからだと思う」  五社巴・前掲152頁

実際五社は「鬼龍院花子の生涯」を82年に公開して以降、83・84・85・85・86・87・88・89・91・92年と、90年を除いて毎年映画を公開させている。その間に癌の手術さえしている。

自分がなんとしてもやりたいことを実現させるためには、相手の足の裏さえ舐める覚悟がいる」  五社巴・前掲167

五十過ぎまで会社勤めしながら自分の作品を作った男の歴史である。

未練が力なり    五社巴・前掲242頁

癌をかかえた五社が、遺作「女殺油地獄」の台本一頁目の余白に記した言葉。



さよならだけが人生さ―五社英雄という生き方

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