バカは大事な物を壊す 土屋敏男

土屋敏男 でも俺も当時は技術の人に「こんなの放送できるか!」ってすごい怒られたよ。画面は暗いしザラザラだしね。 「テレビブロス」2012年1/21ー2/3号

水曜どうでしょう」の藤村忠寿読売テレビ・西田二郎と土屋敏男の鼎談である。藤村が「水曜どうでしょう」を企画した際、局側にちゃんとしたカメラを使えと突き返されるが、「あの『電波少年』も手持ちのデジカメでやってますよ」と説得する。その「電波少年」は「電波少年」で企画時に上記のように局内で否定されている。それでもなお民生の小さなビデオで撮った映像が世に出て、テレビを変えていく。すなわち「電波少年」の猿岩石のヒッチハイクが「水曜どうでしょう」に続いていく。

軽量化された撮影機材が映像表現を変える。(ゴダールの「勝手にしやがれ」の手持ちカメラは言うに及ばず、エロビデオのハメ撮りも同様である。ハメ撮りは藤木TDCによると1987年に始まる。それがまとめられた作品が1988年「のビデオ・ザ・ワールド」誌の上半期ベストワンに輝く。その作品のタイトルは「勝手にしやがれ 本番女優の素顔レポート」であった。) 同時にそれは拒絶されもする。

「バカは大事な物を壊す」、過日、南池袋でおこなわれた第三回バカサミットにゲストスピーカーとして現れた土屋敏男がプロジェクションした言葉である。そして電波少年も大事なものを壊したと語る。アポイントという大事な約束を壊す、テレビには有名な人が出るというのを壊す etc。そしてベーカムなりデジべなりで撮っていたであろう、90年代後半当時の放送機材の水準・オンエアレベルの映像を壊したのである。

「こんなものは〜じゃない」と批判されるもの、それをフランス語でヌーベルバーグ、英語ではニューウェーブという。その連鎖の連続がやがて大衆を取り込んでいく。これが娯楽の歴史である。時代劇はそれを阻む時代考証という魔物があった。……なんやかんやを新潮45春日太一記事を読みながら想う。 おれ on twitter

「こんなものは〜じゃない」と批判されるもの、それが娯楽を変える。猿之助スーパー歌舞伎や、UWFの前田はまさにそれであった。

会社員としてコンテンツ商売に関わっているが、わざわざ「こんなものは〜じゃない」と批判されるものをこしらえるのは骨が折れる話である。そもそもキャリアをつんで行く過程で、「こんなものは〜じゃない」を排除していくのである。そうしてプロデューサーなりなんなりとなり、権限を得た頃には、つまらない大人になってしまう。それが私である。

バカは大事な物を壊す、この言葉が響いたのはそういう事情による。

土屋敏男 すごく傲慢な言い方になるかも知れないけれど、番組って基本的に一人のものだと思う。みんなで話し合うことも大事だけど、最終的に決定権を持った一人の個性が反映された番組のほうが、すごいことになるよね。萩本さんが手がけた一連の番組は萩本欽一のものだったし、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』はやっぱりテリー伊藤のものだった。 テレビブロス同上

あるいは「銀のさら」などの電通CDCの松村さん曰く

面白い映像って合議制じゃなくって、最終的には自分がすっごく好きなものを出すしかないとも思う。ストーリーが偏ってるとか、絵がむちゃくちゃとかそんなマイナスの部分も含めて、個人の引き出しがぼこっと世に出たときの強さってある。テレビCMはたいてい整然としたものが多いから、そういう個人の表現が出てくると強い。 「BRAIN」2012年3月号50頁

私はCM制作会社にいたのでよくわかる。まずディレクターがこれでいいというまで追い込む、暮れ方になって代理店が来て得意先向けにする、夜になってクライアントが来て会社の上に見せられるようにする。そんなふうな運命をたどるうちにまるくなっていく。それがCMである。他人のカネでものをつくり、結構な人数が関わるので、仕方がない。上記の松村さんの言は、一般の人からすると当たり前のことだろうが、商売でやっているとなかなかそうもいかないのである。金正男さんにディレクターをお願いしたら、そりゃあ、それ自体が話題になるだろうし、「こんなものは〜じゃない」なものが上がるかもしれないし、個人の引き出しがぼこっと出るに違いないけれども。

また、土屋敏男の発言でおっと想ったのは、「天才・たけし」と銘打った番組でさえもテリー伊藤のものであったということである。