シナリオ「桐島、部活やめるってよ」(喜安浩平・吉田大八)および映画「桐島、部活やめるってよ」(吉田大八)

冴えない時間を一緒に過ごしたやつが友だちだと思う。  id:goldhead 2010-06-30

きのうまでは、友達(ダチ)だった。  関根忠郎による「その後の仁義なき戦い」の惹句

話したじゃんあの頃は。たまに。  「桐島、部活やめるってよ」シーン58 橋本愛さんのセリフ

第一部 がまん劇、および義侠心と恋闕

集団劇であるから「桐島、部活やめるってよ」にはいくつかの結末が置かれるが、そのひとつに橋本愛さんの平手打ちによるカタルシスがある。そこにおいて「桐島、部活やめるってよ」は『がまん劇』となる。がまん劇とはなにか。卑怯な連中に親分が痛めつけられ、それまで我慢してきた鶴田浩二匕首片手に敵地に乗り込む、こういう筋の類のものである。ここにあって「がまん」とは「本来個人の感情である辛抱に、忠義という公的な思想が入っている」(水落潔 笠原和夫「破滅の美学」153頁より孫引き)ものである。よって「私」の感情ではなく、「公的」でなければならない。

学校のカリスマ桐島の彼女で且つ女王様のごとくふるまう梨沙、その取り巻きの沙奈、このふたりはシナリオのト書きに「若干毛色の違う生徒二人」とされているのだが、それに橋本愛さんと実果、この4人は高1の時は同じクラスである。それが2年にあがると実果だけがクラスが異なる。もう一つの帰属・部活においては梨沙と沙奈は帰宅部であり、橋本愛さんと美果はバドミントン部である。実果と帰宅部ふたりとには溝がありつつも、取り繕いながらグループを維持している。しかしながら実果は桐島の退部により試合に出られるようになった小泉風助が気になることもあって、帰宅部との溝が亀裂へとなっていく。いよいよお終い、小泉風助をチビと小バカにする沙奈に、橋本愛さんは実果に代わって平手打ちを食らわす。

月刊シナリオ9月号に掲載された喜安浩平・吉田大八によるシナリオ(決定稿)では、平手打ちをするのは橋本愛さんではなく、実果である。この変更は「撮影を通して二人を見続けているうちにそっちの方が自然に思えてきて」、橋本愛さんが平手打ちをすることとなる。もし、沙奈に平手打ちを食らわすのが美果本人であれば、「私」の感情によるものであるが、その相方・橋本愛さんが行うことで「公的」となり、ここにがまん劇が完成する。実果の怒りはもちろん、自らを美人と想って疑わない梨沙とその取り巻きの沙奈に対する観客の憎しみを背負った橋本愛さんが、「女渡世人 おたの申します」の太田政子よろしく、ドスで刺すかわりに平手打ちするのである。なんという義侠心。

以下シナリオより。
シーン15 沙奈「よくやれるよ部活とか。そんなに楽しい?」に、実果は内申書のためと取り繕う。「あそこであの人たちにマジな話してもね」(シーン16)と実果。 
シーン63 桐島退部について梨沙に絡む小泉風助らの話となり… 実果「……あるんだよ、あの人たちにはあの人たちの気持ちが」 沙奈「ああだろうね。え? ごめんわかんない、なに?」 このあと桐島の心配話の傍らで美果は微かに笑う。ここで溝が亀裂となる。 
シーン68 実果、橋本愛さんに背が低いながらも頑張る小泉風助について語る。「でも結局負けるんだなあ、どんなんに頑張っても」「なんのために頑張ってんだろうね。羨ましい、沙奈とか、なんも考えてなくて」 
シーン70 ト書き「かすみ橋本愛さん)の視線の先に激しいスパイクを打つ久保と打たれる風助の姿」 ここで橋本愛さんは実果の気持ちを理解する。 
シーン73 沙奈「実果ってさ、2年でクラス別れてからちょっと変わったね」 「仁義なき戦い」で言えば、出所後の菅原文太松方弘樹である。
シーン93 いつものようにしごかれる小泉風助、そこに桐島が現れたとの報。外へ走るバレー部員、そのあとをふらふらになりながら追う小泉風助。それに対する実果「いいよいかなくて」 そんな言葉は届かず、追うように実果も走ってついていく。…まるで出征する恋人を追うかのごとくである。となると桐島とは天皇ではないか。多くのものが指摘するような「キリスト」どころではない。恋人どころか同性の男子生徒たちが慕う、この感情。これは恋闕である。そう、まるで磯部浅一、あるいは久世光彦の小説「陛下」である。
シーン102 ト書き「実果が突然、沙奈を振り返り頬を叩く」 ここは上述の通り、撮影の過程で橋本愛さんに変更。    

第二部 橋本愛さんは2度『忘れた』といい、1度『覚えてる』という。

シーン14 女子グループにて映画部の映画のタイトルの話となり、誰も覚えておらず、話をふられた橋本愛さんの受けは「忘れちゃった」。ここの演技は覚えているが面倒くさいので忘れたことにしたとのニュアンスを含んでいるように想える。この後のシーン32(次の「金曜日」のため時間は遡る)の全校朝礼で司会含めて「君よ拭け、僕の熱い涙を」を失笑する中で、橋本愛さんは「……」となっている。すなわち橋本愛さんは笑いもしないし、忘れてもいない。

シーン85 付き合っている男に映画館で神木くんと居合わせた話をした際、その映画を聞かれて「……忘れた」と答える。すなわちシーン14と同様に忘れたという。「……忘れた」の「……」とシーン14を想えば、やはり面倒くさくて、忘れたことにしているに違いない。ちなみに私もよく面倒をさけるために「忘れた」と答える。おまけに映画は個人的な嗜好が強く反映されるに違いなく、他人様と話するのはほんとうに面倒なものである。

シーン58 「鉄男」の上映で居合わせた橋本愛さんと神木くん。中学も同じだったようで「……覚えてんだオレのこと」「(笑って)覚えてるでしょそれは。話したじゃんあの頃は、たまに」。ここは切ない。中学どころか小学から同じでよく一緒に帰りさえした女子生徒と高校に入るとすっかり疎遠になった。私の話である。過去を切り捨てながら我々は高校生活を送っていたのである。だからなおさらである。

第三部 その他

この映画で具体的に卒業後が語れるのは1箇所しかない。シーン64 友弘「三人でさあ、一緒の大学行かね?」、ここだけである。塾、進路調査、内申書、受験に関するトピックが散りばめられているが。シーン93で小泉風助「……言ったんだよあいつ……卒業まで一緒にバレーやろうって」。すなわち卒業までの人間関係である。青春といえば熱いものに想えるが、進学校の三年間と想えば刹那的な時間である。

映画部のふたりを見ながら、ふとgoldhead氏の言葉「冴えない時間を一緒に過ごしたやつが友だちだと思う。」(2010-06-30)を想い出した。もちろん放課後にバスケで時間をつぶす三人にとっても、その時間は「冴えない時間」なのだろう。

映画部ふたりが「映画秘宝」を開くくだり、誌面の新潮文庫「凶悪」が映る。その旨をtwitterに記したところ、巡り巡って映画秘宝のアカウントより「2010年12月号『この原作を映画化しろ!』特集内で、井土紀州監督が『何としても映画化したい』と評して取り上げた『凶悪』の書影」(link)とお教えいただく。この「凶悪」のプロローグはかなりの名文である。一読を勧める。


凶悪―ある死刑囚の告発 (新潮文庫)

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