低学歴の世界…がどうたら雑感

ある仕事の席上、その年のキネマ旬報ベストテンで一位になった「櫻の園」(平成二年)のプロデューサー氏と言葉を交わすことがあり、わたしが、「あの映画は、出来の良し悪しはともかく、山谷の労働者は見ないよな」と言うと、かれは、「ああ、山谷の労働者に見てもらわなくても結構なんですよ。どうして見てもらわなくちゃいけないんです? 彼らに向けて作っていませんから」と宣った。わたしは吃驚した。
映画は、どんな貧乏なひとでも(どんなに大金持ちでも)、これは面白そうだと見に来てもらえて、彼らを感激させ拍手させて帰ってもらう、というのが理想であり、映画会社の人間というのは、そういうものを目指して大衆映画を作ってきたはずであった。
   笠原和夫「映画はやくざなり」105頁

「プログラムピクチャーは、いわば『貧者のハワイ旅行』なのだ、本質は。」 (「悪趣味邦画劇場」編集後記 執筆者は田野辺尚人と想われる) いいことばだよなあ。 …さしずめ浅草興行街は貧者のハワイ、もうじきサヨナラである。  わたしのtwitter


映画はその昔、貧者をふくむ大衆を相手にしていた。その時代、東映は毎週のように新作をその劇場チェーンで公開をし、その時代に稀代の脚本家・笠原和夫は育てられた。そうした時代の終わり、それに遅ればせながら直面したのが、上記の引用である。なにも「櫻の園」のプロデューサーが悪いのではない。時代が変わったのである。

しかし時代が変わろうが、大衆を相手にするほうが儲けはおおきい。それが娯楽商売である。その大衆を相手にする映画のすごみを私は「ALWAYS三丁目の夕日'64」の、劇場の床に見た。

上映後の床はポップコーンだらけ、3Dメガネのせいでツマミみにくいのかもしれないが、こんなに散らかっているのも珍しいというくらいの有さまで、ハレの映画の証、すなわち年に1度映画に来る程度の人(つまり大半の日本人)をかき集める映画、大衆を相手にしたそれであることをポップコーンが語っているようであった。年がら年中映画を観る人はこの映画を黙殺するのであろうけれども、変なこだわりは捨てて観たほうがいいんじゃなかろうか。
    「ALWAYS三丁目の夕日'64」2012-01-23


私の勤務先の役員は「ブルーカラーの兄にも届くか?」と自問自答しながら商売している。都心でコンテンツ商売などしていると、見える世界は偏る。しかし広くいって南関東は特殊である。もちろん人口の多くを抱えるし、ビデオグラムの販売においては6割を占めよう。しかし全部ではない。

はてなで話題の「低学歴と高学歴の世界の溝」、この溝など、秋元康にすれば鼻くそのようなものだろう。