いまさら加藤

本州の西端で私は育つ。進学校にはいると即座に麻雀を覚えた。まだ週休二日ではなく、土曜日は午前で終わり、自転車で帰る途中、ポプラに立ち寄り、弁当と週刊文春(この地では木曜日でなく土曜日発売であった)、時にはザ・ベスト、あるいはスコラも買っていた。自宅にもどると半ば寝たきりの祖母に挨拶をし、雑誌を読みながら弁当を食って仮眠をし、それから中学時代の、というよりも幼稚園・小学・中学が同じだった者の部屋に行き、同様の者たちと麻雀を打った。そんなのがずっと続いた。もちろん永遠にではない。私は進学により都市に行かねばならなかった。それ以外の希望などなかった。その地のラジオ局はオールナイトニッポンは一部しか放送していなかったので、中高生たちは3時になると朝鮮半島からの電波と戦いながら1242を探り当てなければ、二部を聴くことができなかった。探偵ナイトスクープはなぜかそうそうに番販がなされ、私は88年から見ることができたのであるが、姫テレビは九州の電波を拾わねばならなかった。書店には「ガロ」なんて売っていなかったし、週刊現代は水曜日発売だったのである。おまけに中学は丸刈り強制である。私が大道寺将司だったならば、日帝のアイコンでなく、中学を爆破したであろう。おまけに日本経済はあぶく銭景気のただ中である。そんななかで繁栄から取り残されている気がしていた。「都会で『ユタカ』といったら武豊かも知れんが、山口県で『ユタカ』といったら、そりゃあ、今村豊だろう。」(昔のおれの名言)、そんな気分だった。おまけに「あいかわらず、わけのわからないことを言」(くるり)う相手が欲しかったのである。

本州の反対側で加藤は育つ。有数の進学校にいき、卒業後は岐阜県の短大にいく。岐阜県で生まれ育った者も、岐阜県に違和感をもちながら育てば、進学によって名古屋なり東京へと脱出を試みるだろう。そのようなところに10代の帰結として加藤は高校卒業後にいったのである。それから各地を転々とし歯車は狂いっぱなしになり、最期はトラックで静岡県から秋葉原、人殺しに及ぶ。私が加藤の経歴について知るのはこの程度のことである。

本州の半ばでくまぇりは育つ。彼女は加藤や私と違い、地元を愛せた。だから放火した。「報道され、自分が住んでいる諏訪地方が有名になるように感じ、楽しい」のであった。

地元を愛せないニンゲンは不幸に違いないが、かといって都市に出られなかったニンゲンも不幸に違いない。加藤はその両方を負った。地元にもいられず、都市にも出られない。袋小路。出口なし。輝けるアキバに向かう彼は、固有名詞の薄い世間から濃いそれへ、無名の世界から有名の世界へ向かった。しかし、なんのことはない。毎年2月3月になると新幹線で18や19が都市に向かうのと同じである。あるいは週刊SPAの後ろの方のグラビアに載るために、くまぇりもそうしたのである。無名の世界から有名の世界へ。



※「有名と無名」(2009-08-02)