光の教会、および、いかに私がクズであるか。

光の教会大阪府茨木市


晩夏、あるいは初秋、ペットボトルと文庫、写真機をコンビニ袋にいれて大阪にむかう車中、暇つぶしにケータイメモリの整理をする。イマジカFT窓口なんて二度と用事はなく、キンコーズの店舗の番号がやたらと入っているのに前職の名残りを見たりもする。国立天文台は日没の時間、国土地理院は日没の方位を問い合わせのにメモリに入れていたのだったか。もはや記憶にない。

そこには、その昔、好きだった女の名前があった。

その女を好きになったのは、女がマイノリティだったからである。私のようなどうしようもないニンゲンは、自分に自信など物ごころついた時からなくて、そんな身の上の女に、そうであるがゆえに安心感を覚え、安心して好きになれたのである。女が抱えていたであろう負い目に、私はただ、つけこんでいたのである。

そのような私は、どうかんがえてもニンゲンのクズであるに違いない。


ニンゲン性はとっくに破綻しているのだが、ついでに精神もこわれてしまった。社畜の果て。夏場に3ヶ月で休み1日はこたえた。ケータイを切り、グレート安藤の傑作に入る。以前の私ならば、ケータイを切ろうが仕事が気になってしかたがないところであるが、精神がこわれた今は違う。もはや思慮する気概など失われている。黒光りするイスに腰掛け、光の十字架を見る。それを前にしたところで、異端(本願寺派)の私はどうふる舞えばいいものかわからず、仕方なしにあの女のことを想い返したりする。私はいつも自分の過去に復讐されている。

外に出ると、缶コーヒーを飲んだ。缶コーヒーを飲み終えてしまうと、もはや私にはすることがなくなった。そうして短い大阪旅行は終わる。帰り、サム・シェパードモーテル・クロニクルズ」を読みかえし、東京に戻るとそのまま会社に出勤して、いつものように終電まで仕事をした。


ぼくは言った、そんなに思い詰めるなよ
ただのくだらない映画じゃないか
すると彼女は言った、人生ほどくだらなくはないわ

サム・シェパードモーテル・クロニクルズ」63頁、平民新聞のブログ記事で知ったその箇所には、緑色のスリーエムの付箋紙が貼ってある。この女に「ヒッチャー」の、ジェニファー・ジェイソン・リーを想ったりもする。彼女もなにかがはじまるのを待つだけの人生であった。私もまた、同様である。