妙見島・浦安 / 小呉露由子「あはれ蚊」

どことなくいやらしい形状をした妙見島は、東京都江戸川区と千葉県浦安市の合間を流れる旧江戸川にある。"旧江戸川"というネーミングセンスに無慈悲を覚えつつも、そんなところに島があるなどと聴くとついつい行きたくなるもので、06年04月にのこのこと出かける。そこには月島食品・東京油脂・大進工業・日成ストマックなどの工場が蝟集しており、いくつか飲食店がありはするものの、これといってどうという場所でもなく、やるせない気持ちでいっぱいになった。このままおずおずと引き返すのも悔しくて、旧江戸川づたいに南下をはじめると、はからずも山本周五郎青べか物語」の浦安を散策することとなり、それはそれでよいのだが、さらに南下を続けると東京ディズニーランドにたどりつく。せっかくなので入園しちゃおうかしら…という場所ではもちろんなく、畢竟、JR舞浜駅でミッキーの耳をつけた女子供の群れにまぎれ込んで電車を待つこととなる。方やディズニーランド帰り、方や妙見島帰りである。方やイッツ・ア・スモールワールド、方や東京油脂江戸川工場である。私はせっかくの土曜日になにをしているのであろうか。「復讐するはわれにあり」の宣伝文句「惜しくない。俺の人生こんなもの」をふいに想い浮かべるのであった。

● 2005.11 妙見島(東京都江戸川区〜浦安(千葉県浦安市

上段が妙見島。下段が浦安で、真ん中の「吉野屋」が「青べか物語」の「船宿・千本」のモデル。右の旧江戸川を横断する送電線が06年08月の大停電の原因となる。


私の想像上の生き物である小呉露由子は、妙見島を一歩たりとも出ることなくその生涯を終え、この地を舞台とする夥しい数の詩を残したことで知られる。夏を越した蚊を"哀蚊"というのだが、今日は小呉の代表作「あはれ蚊」を紹介したい。

暮れ方に、部屋の中を、蚊が飛ぶ。

奥さんがお手洗いにいってしまい、取り残された私は、所在なく部屋の中を見回す。
奥さんの匂いを感じる。先ほどまで坐っていた座布団はもとより、閉じられたタンスからさえも。
そこらじゅうから肌の匂いがたちこめる。夕暮れの二階屋に、奥さんの匂いが充満していく。
程なくしてトイレの方から水を流す音。私はあわてて現実に戻る。

その刹那、蚊が一匹、ぶーんとまがまがしい羽音をたてて飛んでくる。

蚊を見つめる。血を吸いすぎて、見つめることが出来るほど、鈍い動きの蚊である。
いよいよ目の前に蚊がやってくる。
私は両手で叩く。
ゆっくりと手を開くと、手のひらには、したたるほどの赤い血。
まんまと一撃で叩き殺す。
ガタリと音がしてトイレから奥さんが出てくる。
蚊の死骸をつまんで床に捨て、手のひらに残る赤いものをぺろりとなめる。
顔を上げると、奥さんと目が合う。私はにっこりと微笑む。

奥さんは、薄紅色のスカートからのぞかせる、白くひんやりとした ふくらはぎを、ぽりぽりとかく。
白い肌に一点、赤く染まる蚊に刺された跡。
私は、喉の内側を、ぽりぽりと、かかれたような気がした。
すると、奥さんの肌の匂いが、私の鼻の穴から、ゆるゆると洩れ出してきた。

   小呉露由子「あはれ蚊」(『痴情夜半』市ヶ谷黒虹社・1977)より