浄閑寺 / 金子光晴 

もし、それができることだつたら、
生れるずつと前から二人が知りあつて、そして、恋しあつて、
こんな世のなかに生れなければよかつたのに。
  金子光晴 「展望」(「金子光晴詩集」岩波文庫収録)

東京三ノ輪の浄閑寺は、吉原遊女の投げ込み寺として知られる浄土宗の寺である。ここは「生れては苦界、死しては浄閑寺」の碑や永井荷風「震災」のそれ、三遊亭歌笑の墓、新吉原総霊塔などあれこれ見所があるのだが、いまひとつに吉原の品川楼で情死した遊女・盛紫と警部補・谷豊栄の比翼塚*1がある。アラーキーの写真集でたびたび見かける、土台続きの墓である。死んでしまって、ようやくふたりは結ばれたのであった。So romantic!

上の金子光晴の詩を読んだ際に、この墓の二人のことを想いだした。

浄閑寺(東京都荒川区南千住) 左からが比翼塚・新吉原総霊塔・墓所

今でこそ浄閑寺は立派な寺であるが、もともとは荒廃した寺であった。そんな様子に20歳そこそこの永井荷風は惹かれる。その後、昭和12年に30年ぶりに吉原帰りに訪れ、変わらぬ様子に安心した荷風は頻繁に訪れるようになる。浄閑寺荷風を客として迎えるのは昭和31年になってのこと。それまで住職の岩野真雄荷風が来ていたことを知らずにいたのであった。「寺に三十年働いている老女がその際、「あの方ならたびたびお詣りに来ていらっしゃいます。いつもやさしくニコニコしていらして、今に門や本堂が立派になりますと言いましたら、いや、こうペンペン草が生えている所がいいのだ、と仰言ったので、変わったお人だと思いましたが、そんなえらいお方だったのですか」と告げた。*2

荷風は自らの墓を浄閑寺に建てることを願うのだが、永井家の墓のある雑司ヶ谷霊園に眠ることになる。結局のところ、荷風エスタブリッシュであり続ける。

*1: 比翼塚とは、「家」単位の墓でなく、夫婦の墓をいう。

*2: 岩野真雄永井荷風先生と浄閑寺」(「文学散歩十七」収録) 川本三郎荷風と東京」より孫引き