麻布廃町

地下鉄神谷町駅から桜田通りをロシア大使館方面にむかう途中で、ふいに脇に逸れると、異質の空間が広がった。ぶらぶらするうちにそこらは森ビルの再開発により買収が進められているのだと気づき、写真を撮ってまわる。屋外は人が住んでいた時のまま放置されたような住宅が多く、不気味なほどに伸びたアロエの鉢植えや住居を覆う蔦が方々で目についた。また商店街っぽい一郭にはベニヤ板が張り付けられた店舗が散見した。さらに奥へといくと住所は麻布台となり、今度は昭和な住宅街が残っていた。2003年10月のことである。あれから5年がたつが現在はどうなっているのかは知らない。
● 2003.10 / 2004.04 神谷町・麻布台(東京都港区)



棄てられている"協立証券"なる屋外広告灯があるが、ここは山一証券系の会社で、99年04月にエイチ・エス証券と商号を変更。

麻布〜町

このあたりはかつての麻布我善坊町。このような麻布〜町という町名は、現在まで残るのは麻布狸穴町麻布永坂町のふたつのみであるのだが、「旧町名で見る麻布」に従えば、"住居表示"以前には麻布〜町は45に及んでいた。

昭和37年に公布された「住居表示に関わる法律」により、国策として住居表示の整理が進められ、多くの町名が消えていく。「港区は、小さな町が二百余もあり、町境も複雑で、飛び地も抱える、難儀な区のひとつであった。行政側も粘り強く合意を取り付け、昭和53年(1978)年までには、町名変更は97.4パーセントの達成率にまでこぎつける。*1 麻布狸穴町麻布永坂町が残る背景には反対運動があり、永坂町に住む松山善三高峰秀子夫妻やブリヂストン石橋正次郎、狸穴町の木内信胤らが中心となった。

麻布十番は?ってことだが、逆にこの町名は昭和37年に生まれる。麻布新網町麻布網代町麻布坂下町などの各一部からなる地域に附けられたもので、「十番とは、十番組屋敷、十番橋など、江戸期の町名だった里俗称を復活したもの*2である。

*1: 石村博子「町名はいかに守られたか。」(「東京人」2005年05号収録)より

*2: 「東京人」2005年05号より