私の中のすべての七月

7月13日といえば中森明菜の誕生日であるが、もう一人有名なアイドル、同期デビューの石川秀美の誕生日でもある。秀美は明菜の1つ下66年の生まれであった。
たしか85年7月の夜のヒットスタジオだったと思う。もうすぐ誕生日ということで番組に出演していた中森明菜石川秀美に共にバースディケーキが贈られた。誕生日の抱負と共に二人は「早く結婚したい」とトーク、秀美は「24歳くらいに」、明菜は「25、6歳には」と語っていた。
この夢は、ここを見ている人ならわかるとおもうが、秀美は叶え、明菜はやぶれた。
80年代、明菜がトップスターとして君臨するのと対照的にアイドルとして着実な人気を得ながらもトップ集団のなかではいまいち目立たなかった石川秀美であるが、その後の私生活に関しても明菜ときわめて対照的な途をたどることとなった。―――20代前半にジャニーズアイドルと結婚し、引退。子沢山の幸せな家庭を作る、という明菜がいくら望んでも手に入れることのできなかった夢を彼女は実にさりげなく叶えたのだった。  
       中森明菜を追いかけて「明菜よもやま話 その7」より

中森明菜レコード大賞をもらったり映画に出たりする一方で石川秀美は年々影を薄くしていったのであるが、しかし、今となっては他人の曲を唄うより他なくなった明菜は、はたして仕合わせなのか否かなどとあれこれ想うところである。明菜と同じく1965年7月生まれには橋本真也がいる。その橋本は2005年7月11日に死んでしまう。
暇つぶしに昔のケータイのメールを読んでいると、橋本が死んだ日のそれが見つかった。その日、仕事関係の暑気払いが中野であり、JR中野駅キヨスクに積まれた夕刊紙で橋本が死んだと知る。その日の面子には誰も橋本に関心のある者はおらず、もやもやした気分を晴らすべく、友人にメールしたものであった。昭和二十年八月十五日あなたは玉音放送をどこで聴きましたか…てな企画はよくあるのだが、同じように、あの日あなたは橋本の死をどんな風にして知りましたか、と色々な人に聴いてみたかったりもする。

あっさり言えば、私は有名人が死んでも驚きはすれども、たいして悲しくはない。また、中学生の頃「異邦人」を読み、母親の葬式で涙を流さなかったムルソーが裁判でそれを責め立てられ死刑になるのにはほんとうに驚いた。おれも死刑になる類のニンゲンなんだなと。そんな人でなしの私もブルーザー・ブロディの死を上柳昌彦のラジオで聴いた時は悲しかった。ひょっとすると人の死に対して初めて悲しんだ時かもしれない。それは中三の7月の夜のことであった。それからたくさんのレスラーが死んだ。荒井社長も死んでしまった。なぜプロレス関係者の死はこうも悲しいのだろうか。


世界のすべての七月

世界のすべての七月

RSSに入れているブログより橋本追悼エントリ。

IMITATION GOLD
   「愛すべき豪傑、"破壊王"橋本真也急逝...」2005-07-11
関内関外日記
   「橋本が死ぬなんて」2005-07-12
   「破壊王最後の雄姿」2005-07-20
〜あなたも一週間で20cmに!〜 Nakamyura Recital 改
   「爆勝宣言:橋本真也(フリー)」2005-07-11
   「橋本報道で思うこと」2005-07-21
男の魂に火をつけろ!
   「大ショック!破壊王死す!」2005-07-11
【B面】犬にかぶらせろ!
   「橋本真也……、それでもプロレスラーは強かった」2005-07-11
快楽亭日乗
   「テンカウントが鳴り止む前に」2005-07-12

ついでに明菜・橋本と同じく65年生まれの荒井社長の「翼をください」動画。この2年後に公園で首を吊る。合掌。