ふくらはぎ、増毛、中島哲也


[1] 女性モデルのふくらはぎのオーディションをしたことがある。なんだが村上春樹の小説でタクシー運転手がはじめた話のようであるが。それは平面広告の仕事で、女性モデルに椅子にすわってもらい、ひたすらカンプと同じ構図でふくらはぎのポラを撮っていくのである。30人ぐらいを終えたところで代理店のアートディレクターも参加し、終わる頃にクライアントがやってきた。全部で50人くらい呼んだであろうか。最初、われわれ制作会社の者は善し悪しが分からずにいた。なにしろふくらはぎである。しかしアートディレクターが到着する頃にはそれが分かるようになっていた。その旨をいうとアートディレクターは笑っていた。いよいよ終わりになってクライアントが到着した頃にはアートディレクターも善し悪しが分かるようになっていて、クライアントは笑いながら、どのふくらはぎにするかは みなさんにまかせますと言った。

思索や洞察を重ね、一周してたどりついた結論なり、知見に対する敬意というのが、この手の作業にはあるのではないかと想う。あるいは職業としてそうしたことに関わる場合に、それらを重ねなければならないのは当然のことであるが、そのうえでの結論・知見であることを他者になにかしらかの方法でしめさなければならない。それは往々にして「膨大な量」であったり「あらゆるパターン」であったりするのが難儀な話であるのだが。(ひとによっては名前、ひとによっては ふるまいであったりもする)

(intermission) 「あいつはクレイジーだ」と言われるようなことが、実は思索を重ねた末に到達したアイデアだったら・・・それは超絶に強力だ。 ( 「シリコンバレーは今日も晴れ」さん宅より

[2] 去年か一昨年に博報堂を定年退職したある方が、制作局長時代に広告写真雑誌「コマーシャルフォト」(玄光社)の「マンスリーベスト」の選者になったことがある。これは毎月ひとりの制作職の者が一定期間のCMアーカイブをひたすら見て、何本かを紹介するもので、普通は派手なCMやオンエアが少ないためにあまり知られていないながらもよくできたそれを選出する。何かを選ぶというのは同時に選ぶ自らを顕示することでもあるから、そうなるのが普通であろう。それがお勧めの書籍であれ、映画であれ。

ところがその局長は、ありふれた増毛のCMを選んでいたのである。さすが局長、今さら自らを誇示する必要もないのである。

CMである以上は、短い尺での表現を試行錯誤する。どんなにくだらないことでも、バリエーションをつくり、くりかえし比べ見て、なにが表現のキモであるのか、違いを生むのかを見つけ出す。CM制作はその連続である。たとえば精子が泳いでいるCGをつくるとしよう。この時、"ひとは何によってそれを精子と見なし、それが泳いでいると認識するのか"をさぐらなければならない。それなしでは、2秒もないカットを重ねるCMはわかり易いものに仕上がらない。よって増毛にしてもその映像表現をひたすら考え、短い尺での増毛シズルの見せ方をあれこれ試しているひとがこの世にはいるはずであり、それを見抜こうとしているひともいるのである。

(intermisson) 鬼頭季郎(東京高等裁判所元裁判長)「考える過程においてそこに喜びを見つけ出し、結論においてはここまで真剣に考え抜いた者は世の中に自分しかいないことを自信の根拠とする」 ( 「Casual Thoughts」さん宅より

[3] 中島哲也作品の美術で知られる桑島十和子さんは、作業場に「中島監督にもらった犬のフィギュア(本人の手書きコメント付き。フレーズは「それでいいのか?」)」を置いているという。(white-screen.jp:桑島十和子と魔法の美術) それでいいのか? … 痛烈な言葉である。時間や予算の制約をいいわけに、「それでいいのか?」を「これぐらいにしてくれませんか?」でかわすことを安易に考えると、容易につまずく。私はそれを繰り返した。


以上の三つの断片を文章としてまとめる技量がないので、ばらばらのままにしておく。一応は[1][2][3]と数字を振っているのには意味があるつもりである。また、これは当初マイルス・デイビス「kind of blue」の素晴らしいまでのつまらなさについて書こうとしたものである。

Kind of Blue + DVD

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