1997.06.01

あの日を想い出すに、脳裡に浮かぶ情景のひとつとして、鷺宮駅にて急行の通過待ちをする間の、車窓から入るやわらかな光を受けた女の表情がある。あの日、私は女と西武新宿線に乗っていた。

その女はどんな恰好をしていたか、まったく憶えてはいない。しかし府中での大西という35歳の男のはにかんだ笑みや、安田という49歳の男に向けられた背中は今も憶えている。

1997年6月1日。永遠の一日。



定冠詞つきのダービー、すなわち the Darby は英国ダービーを指すらしいが、私のダービーは未来永劫、あの日のダービーである。

大勝負直前、大西は騎手同士で雀卓を囲み、緑一色を出す。岡部はこんなところで運を使ってと笑い、大西はつきが回ってきたと言ったという。ちなみに皐月賞の朝には、大西は妻に、最終レース後にサッカー大会があるから帰りは遅くなると伝えたという。そしてG1ジョッキーとして帰宅することになる。

大西はダービー勝利を「夢みたい」といった。当時は35歳のおっさんが「夢」なんて言葉を使う様に純朴さをみた。今となっては、「夢」なんて言葉を言える35歳のおっさんをうらやましく想う。そしてその大西の栄光よりも、安田の敗北に気が向くのである。地を這い続け、すり減り続けた今の私は。

私は皐月賞オースミサンデーから買った。ロジータの、別冊宝島でしか知らないロジータの仔である。この馬を知る世代と地続きになりたくて買ったのだ。しかし、勝ち負けどころか、ゴールすることすら出来なかった。

日刊ゲンダイの片山(後の本紙。当時の本紙は鈴木)はサイレンススズカを本命にしていた。ゲートをくぐれる程の柔軟性がその理由であった。橘の本命はなんだったか、憶えている人は教えて欲しい。

92年のライスシャワーの的場は、マヤノペトリュースに交わされ、このままでは4着になってしまうと必死に追ったところ、マヤノ〜を差し替えし、2着になったのだという。競馬界にはダービー4着馬は出世しないというジンクスがあるからだそうな。"私のダービー"の4着はエリモダンディー。もし3着だったら、あるいは5着だったら、その後のエリモダンディーはどうなったのか。

ブコウスキーが死んだ春に生まれた世代による春のクラシックは、四競走すべてで大外枠が勝った。秋になって菊、大外はシャコーテスコ、16着に終わる。この馬は偉大なる野平祐二にその生涯、最後の重賞勝利を授けた馬でもある。