秋の福島 4レースでも走りにいくか

何にでもなれる、その可能性があるような気がしていた時代、何になるかは自分の選択だと思っていた時代、時がたってみると、ただそこに追いこまれて、こうしているほかはない自分。 (色川武大狂人日記」) 

競馬場に集まる人の群れは、仮面をはぎ取られた世界であり、敗北に擦り減らされた人生そのものなのだ。最後に勝つ者など誰一人してなく、わたしたちはただ一時的な猶予、眩しい光から逃れる一瞬を追い求めているだけなのだ。 (ブコウスキー「死をポケットに入れて」)

「この『未勝利』って俺達の事じゃね?」 (2ch競馬板「競馬場のオッサン達から聞いた名言集」)


ひと昔前、秋の福島は4歳未勝利戦がやたらと組まれていて、まともに予想していると全頭がケシになってしまう、そんな競走だらけであった。どうしようもなく弱い馬同士の争いなもんだから、仕方ない。しかし走る方は、いわば崖っぷち、ここで勝ち上がれないとなると地方競馬へ回されればいい方で、使役馬や研究馬になったりの運命が待ち受けているわけで、その先には廃用、つまりは馬肉業者が待ち受けている。

世の中が天皇賞だの菊花賞だのに目を奪われる季節に、秋の福島では せつない影をひきながら弱い者同士が命をかけて走るわけだ。もちろん勝ち上がれたところで命拾いがせいぜいで、明るい未来があるわけではないのだが。「一時的な猶予」を得るだけである。

地方者でたいした学校も出ずになんとなく映像制作会社で働き、それでもまあ短尺に何千万の銭金をつぎ込んでいたもんだから、裏開催の福島を走ってはいても、福島民報杯くらいじゃね? と うぬぼれていたのだけれども、今の私は間違いなく秋の福島の未勝利戦を走っている。どうしようもなく敗者であり、終わりが確実に迫りつつある。かなしい話だ。

で、昨日は昼には会社に出るつもりだったのだが、コーヒーをもう一杯呑んでからもう一杯呑んでからと想ううちに、結局五・六杯も呑んでしまった。今日はもう出よう。えらいな、おれ。


○ 「町田康『宿屋めぐり』その他 悪態をついて」(2009-02-08)

ピクニックもろくにいけないような人生になんの意味があるのだ。そう思って俺は就職しなかった。ところが大抵の者は就職した。そのことは俺がこの世界にばまりごんで、ついにはおばはんになってしまっていることに深い関係があるのではないかとおもう。だって、普通の奴はこんな目に遭わないからね。つまり、自業自得。普通の人がするようなことをしないから、普通の人が遭わないような目に遭うのだ。結局、ピクニックは一回もいかなかったし。  (町田康宿屋めぐり」560-561頁)