小日向 ☆ 死の家の記憶。


○ 2009.05 小日向(東京都文京区)


漱石で好きなのは、「門」で御米が易者に占ってもらうくだりと、下記の「坊ちゃん」のお終いである。

 清(きよ)の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。*1


共働きの家庭であったために半ば祖母に育てられたようなものであるのだが、そのために人の死を意識し続けるはめとなった。近々死んでしまう、そのような不安をどことなく覚えながら生活していた。5歳だか6歳の時に隣の家のお婆さんが亡くなって以来、ずっとそうであった。私が厭世的な性格なのは、おそらくここに始まる。

その祖母というのは母方の祖母である。すなわち私の父とは他人同士である。というわけで仲がいいはずがない。おしゃべりな姉たちがいなくなるに連れて、家の中は息が詰まるようになっていった。祖母と父のふたりの時はさらに息が詰まったであろう。

大学にいきに家を出た後、夏になると帰省をし、すると「いつまで居るんかね?」と毎日聴く。いよいよとなると「次はいつ戻るんかね?」と日がな聴く。私はそれを鬱陶しくしては、申し訳なく想った。九月の初めとなり、荷物をかついで坂道をくだる私を、ずっと見送っていた。それまた鬱陶しくしては、また申し訳ない気持ちになった。

あわれんでもらおうとの目論見から、このような話をすると、女は静かに聞いてくれた。その頃、祖母はかろうじてこの世にいたのだが、ふたりして病床に会いにいく日が来るのではないか、と浅墓にも うぬぼれた。というのも、その女と結婚でもするような気がしたからである。しかしそれは気のせいだった。当たり前だけれども、ひとにはひとの都合がある。 … それはCoccoの「樹海の糸」が売れていた頃の話である。






*1: この「小日向の養源寺」とは、夏目家の菩提寺である文京区春日2-20-25の本法寺がモデルとされている。