映画について

あと2ヶ月ほど週90−100時間の調子で働けば、ささやかな栄誉が得られる。商業映画の制作サイドのニンゲンとして名前がクレジットされるというだけの話である。そのような些細なことと、毎週末休めるのとで、どちらが仕合わせかといえば、当然ながら後者であろう。私とて、自転車に乗って遠出をしたり、ラブプラスとかいうゲームをしたりしたいのである。まあ嘘だが。とはいえ、荻窪図書館の資料室にて新聞の縮刷版で政治家の死亡記事を読みあさったり、安コーヒー屋で本を読んだり、青梅線の駅間をほっついたりするくらいの時間は得られるに越したことはない。 

CM制作会社にいた頃、ポスプロ作業はそのほとんどをオムニバスジャパンでおこなった。ここのコンポジッターはCM以外に映画にも担ぎ出される。最近忙しいですか、ええ映画やってるんですよ、そのような会話の言葉は弾む。映画に関わることは映像を職業とする者にとっては栄誉である。こないだDVDで「大陸棚」見ましたけれども、クレジットに名前ありましたね、と言えば、歓びもする。映画こそが作品である。映画を"コンテンツ"などと訳知り顔で言うニンゲンには理解できないであろうが。

映画こそ作品、これは修辞ではない。SDサイズ時代のCMは「民生*1のモニターではそこまでは判別しえない」という言い訳があった。音について言えば「生活音に紛れるので」。このように視聴環境の影響を受けるCMは、作り込みながらも、逃げも出来た。

ところが映画はそのようなゴマカシが効かない。スクリーンなる代物は無駄に大きいのではないのである。ここではデータ上の1ピクセル差が明確に判別できる。これには私も驚いた。恐ろしいと想った。音とて同様に違いない。このような話は"共犯者"だの"不意打ち"だのという言葉を散りばめる批評家には興味のない話であろうが。

映画が作品であるというのはこのような事由によるのであり、それに携わるのは栄誉である。そうであろうけれども、それでもなお私は週休二日の生活を望むのである。

晴れて週休二日の生活を得られたらば、何をしよう。自転車を買い、ラブプラスを買い、お出かけしました系のブログを書き、駆け落ちをしたり結婚したりして、あげくには三月にはおはぎ、四月には桜餅、五月には柏餅を、女とその間に産まれた子供と共にこしらえるのだ。それがニンゲンの仕合わせというものに違いない。離婚後は木造モルタルアパートでしょんぼりしながら通信教育で琵琶を習い、そしてストリート琵琶法師となったりするのである。きっと「ザ・ノンフィクション」が取材しに来てくれるに違いない。「路上の芳一 〜 48歳の自分語り」、そんなドキュメンタリーになるのだ。 … なに言ってんだ、おれ。


(姉妹記事) 「映画・CM・映像」(2009-09-06) … 映画とCMのフレームの概念の違いについて

*1: ミンセイであって、タミオではない。業務用でなしにご家庭のテレビのこと。