ドラゴン・タトゥーの女→中村勇吾→

要するに、スクリーンを「プロダクトの延長の実平面」と捉えるか、「仮想的な空間を覗く窓」と捉えるかの違いで、どちらもそれぞれに、気持ち良い面、気持ち悪い面をもっている。  (中村勇吾 on twitter


ドラゴン・タトゥーの女。▲TOHOシネマズの座席を立つ際には、いまひとつと想いもしたのだが、日が経つと傑作に想えてきた。それは映画の記憶が薄れ、女の魅力のみが残っていったからであろう。▲スタイリストとヘアメイク、このふたりの勝利に違いない。平成のはじめ、「ゴッドファーザー3」を見た私は、すぐさま皮のコートを買った。アンディ・ガルシアの影響である。いい歳した今、「ドラゴン・タトゥーの女」を見た私は皮のジャケットが欲しくなった。しかしながら、帰り、無印良品でスキンケア商品を買って帰る。年をとるというのはそういうことなのだろうか。▲音を次のカットにこぼす編集がしつこいほど多用されている。これは割りと好きである。▲この映画で関心したのは、女と男があやつるPCのディスプレイ内で、多くを処理していることである。長大な原作の要素を映画として刈りこむ際に、手っ取り早く説明する手法として、ディスプレイ内で見せるそれをとっているのであろう。(原作は未読) ディスプレイ内で操られる数多の写真、それは登場人物の思考そのものであり、混沌→引っ掛かり→発見と、セリフによらずにディスプレイ内での展開でそれを見せていく。すなわちディスプレイの面でもって他人の頭を覗くのである。▲そこで想い出すのが中村勇吾である。


「スクリーンを『プロダクトの延長の実平面』と捉えるか、『仮想的な空間を覗く窓』と捉えるか」(中村勇吾)、この冒頭の言葉である。中村勇吾は現在はインターフェイスデザイナーであるが、もともとは「実はもともと僕、建築の世界で構造家を目指してたんです」。そして建築家と構造家とがお互い相手の領域について深い理解がある人同士で組むと、レンゾ・ピアノ(建築家)とピーター・ライス(構造家)のコンビのように傑作が生まれると続けている。▲そのピーター・ライスは言う。「建築家は課題に対してクリエイティブに対応するが、エンジニアは本質的に革新性に満ちた方法をとる」 ▲この建築家−構造家の関係に近い、すなわちクリエイティブ×エンジニアリングの関係で作品を生み出している事例のひとつに、真鍋大度×石橋素があろう。現在西新宿のICOで展示中の真鍋大度+石橋素「プロポーション」はまさにそうした創作物である。おそらく来年の今頃はメディア芸術祭の大賞作品として国立新美術館に展示されているであろう。


映像はながらくエンジニアリングを不要としてきた。テープに落とすこと、これが映像の最終工程であった。その後はデッキで再生され、モニタに移される。あるいはフィルムに定着し、映写機でスクリーンに映す。そこでは個別の映像が個別のエンジニアリングを必要としない。テープやフィルムの規格に沿うのみである。▲エンジニアリングとは無縁の世界、それでいて映像は先端性を持ち得た。しかしそんな時代は終わった。▲過日、2011年のカンヌ広告祭受賞のCMを60本近くみたのだが、そのなかで技術的に10年前にはありえないCMは1本のみであった。(CMの音をshazamで拾うもの。これは10年前ではやりようがない) ▲しかし、その10年前の2001年頃のカンヌはどうであったか。インフェルノという不吉な名前のコンポジットマシンの登場によって、どうやってつないだかわからない、ゴンドリーが切り開いた面白い場面転換、そうした映像テクニックの全盛期である。これはおそらく世界的にCMの黄金期である。それらはその10年前には成し得ない映像手法によって作られている。なにしろ1991年にはこの世にインフェルノは存在しないのである。▲(もちろんここ10年に映像は進化している。しかしそれらの進化を吸収しているのは映画である。いつしか映像の進化をCMは吸収しなくなった。いやCMが進化を必要としなくなったのである。CMにとって映像技法をさほど重要ではないものとなった。消費者インサイトなど、すなわちマーケティング的な課題をこなすのに、映像の進化は過剰となった。)▲いずれにせよ、エンジニアリングと結びつかないクリエイティブは孤立する。 

これ、一部で話題なんですが、iPadでAV見ると臨場感が凄いんですよ。 (notomi on twitter

エンジニアリングを不要としてきた映像は、同時にほぼ正対の位置からほぼ水平に目線を遣って見るものであった。しかし、そんな時代も終わったのである。