どうでもいいことについて / 阿部和重「グランドフィナーレ」

どうでもいいことについて

私の祖母は老いて外出できなくなると、一日中洗濯物の乾き具合を気にするようになった。ほっておけば乾くものを、日がなそれを気にして過ごし、庭に出ては乾き具合の確認を繰り返すのであった。阿部和重ニッポニアニッポン」を読んだ際に想うたのは祖母のそうした行動であった。ひとは余地が目減りする程に、どうでもいいことにこだわり始めるのだな、と。(件の小説は、引きこもりの男・鴇谷春生が名字にある「鴇」(とき)にこだわり、その果てに佐渡島で飼育される朱鷺を解放するために、飼育所の襲撃を決行する話である)

元官僚殺しの小泉毅も無職となって、他人にとっては想いがけないことにこだわり、人殺しに及ぶ。報道にしたがえば、三十数年前に飼い犬を保健所に処分された恨みとのことであるが、この拍子抜けする動機もさることながら、それが随分と昔のできごとに起因するのには「今さら」に想える。しかしながら意外とそういうことはあるのかもしれんとも想う。
私とて高校一年の時にくだらない理由で、他の生徒への見せしめとして教員から顔が腫れるまで平手打ちを喰らい続け、血を呑んだ。恐怖心から神経をおかしくさえした。以来その教員への憎しみを持ち続けるのだが、とは言え、当時の私にすれば大学にいかなければならなかったし、大学に入ったら入ったでそこでの生活が始まり、その後就職してなんやかんやで今日まで過ごしてきた。要するにその教員どころではないのである。

その教員が数年前まで年賀状を送ってきていた。その度に丁寧にもPhotoshopillustratorとでデザインした年賀状を返信し続けた。どうせあいつは落ちぶれて喰えていないのだろうと想われるのが厭だったからである。私による報復は鉄パイプや出刃包丁などではなく、その程度のことであった。「泣くな。復讐しろ。最高の復讐は幸せに生きることだ」なるアイルランドの諺があるそうだが、「幸せ」には及びはしないが、見せかけだけでもそうあろうと意地になってきたのが私のこれまでである。しかし、どうにもならなくなったならば、さて、どうなるものか。

阿部和重「グランドフィナーレ」

阿部和重の「グランドフィナーレ」、初出の「群像」で読んだ際にはこぢんまりとしたものにしか想えなかったのだが、過日、改めて読み直したところ、やはりこぢんまりとしたものにしか想えない。この小説は、娘の裸を写真に撮るなどして離婚したロリコン男が、郷里に戻り、不意に小学生の演劇を手伝う(その小学生の一人が「ニッポニアニッポン」の鴇谷春生の妹である)話である。

もともとはこのロリコン男、教育映画を撮っていたのだがその職も離れてしまい、二度と演出など出来ないはずであったところに、小学生の演劇の演出が舞い込んでくる。こうして「最後の演出」の機会を得る。「どことなく甘美に映るものらしい、最後という境地への執着」(138頁)とあるように、落とし前をつけているのである。このように、どうにもならなくなって人殺しをする者がいる一方で、取るに足らないことに夢中になれる者もいる。

昨年の大晦日、ひとり暮らしの老女が年越しそば用のカップ麺に入れるお湯を沸かそうとしたところ、寝間着にコンロの火が点き焼け死んだ。陰惨な報道を正月早々にテレビで見ながら、自らのゆく末を見たような気がしたのだが、孤独な生活のなかにあっても自らに喜びを与えようとした形跡に言いしれぬ感情を憶えた。私もこの先、忘れ去れるように老い、死んでいくはめとなるのだが、そのように凡庸な生にあっては、どうでもいいこと、取るに足らないことに喜びを見出していく他ないのだと、ようやく気付きもした。以来、コーヒーが旨い。


グランド・フィナーレ

グランド・フィナーレ