高木功と滝田洋二郎


滝田洋二郎が米国のアカデミー賞外国語映画賞を受賞したが、その滝田のピンク映画時代に多くの脚本を書いたのが高木功である。この高木功、奇しくも「おくりびと」同様に葬儀に関わっていたようなので、それも含めて高木功についてまとめた。

高木功滝田洋二郎

滝田洋二郎の「コミック雑誌なんかいらない」(86)もNCPの作品。これは滝田にとって初めての一般映画であり、同時にピンク映画でコンビを組み続けた脚本家・高木功との唯一の一般映画となる。ピンク映画自体、滝田は86年いっぱいで足を洗い、以降「愛しのハーフ・ムーン」を経てフジテレビ出資・一色伸幸脚本の「木村家の人びと」「病院へ行こう」etcを撮っていく。この過程で"「痴漢電車」シリーズの滝田"を払拭していき、やがては予算規模の大きな映画を任せられるようになる。 (当ブログ「櫻の園 / コミック雑誌なんかいらない / NCP」2008-11-06)

ふたりの出会い

滝田 僕と高木は、八一年頃、僕が監督できるぞというときに小さいピンク映画の世界なんですけど、どうも既成のライターの人とは合わない、それはそれまで助監督をやってて肌で分かるんですね。だからいろいろ探していたんですけど、そんなときたまたま<ズームアップ>っていう雑誌があって、そこで脚本募集を何回かやってたんですよ。僕はその編集部に行って応募作を根こそぎ読んだのよ。そしたらね、高木ちゃんのが一番感性に合ったというかね、「あっ、いいな」という感じで引っかかったんですね。
(略)僕の最初のタイトル(「痴漢女教師」)が決まったとき電話した。当時高木は堺にいたのかな、ちょうど結婚する寸前だった。東京に出てきて、僕の綺麗なアパートで……。(爆笑)トイレも風呂もない、陽が当たらない、ちょうど「百年、風を待つ」のあのノリで……。そこで始まったんです。  (「座談会 高木功を偲ぶ」滝田洋二郎ほか 高木功「百年、風を待つ」収録)

件のズームアップ応募作品が、後の「桃色身体検査」(85)で、これは死体を盗む筋書きである。

高木功と葬儀

高木さんは、僕が3年ほどやったバイト先の先輩でした。シナリオや小説だけでは生活できないので、高木さんもバイトをしていて、それが「葬儀用の故人追悼テープのナレーション原稿書き」だったのです。亡くなった人の人生を専門スタッフが遺族に取材し、その取材表から感動的な謳いあげ文章を紡ぎ出す。それをバイトのアナウンサーがテープに吹き込み、葬儀のオプションとして流すのです。確か、1本書くと3千円から5千円になっていたかなぁ。それを1日に5〜7本書くというバイトです。  (いつか見たヒバゴン映画が足りない」2008-08-29)

高木功の死

長年、滝田とコンビだった高木功は、その後、小説家に転向するが、生活に困窮し、不安神経症を病み、九十四年、三十八歳の若さで死去。訃報を聞いた滝田は泣き崩れたと言う。  (「映画監督ベスト101 日本篇」(新書館・1996)の滝田洋二郎の項)*1

高木功略歴

1956(昭和31)年、大阪市天王寺生まれ。高校卒業後一年ほど建設会社に勤務。その後、夜間の大阪シナリオ学校に通い、大阪芸術大学映像学科へ入学。81年滝田洋二郎監督のデビュー作「痴漢女教師」で脚本家としてデビュー。以降、滝田監督とのコンビで、二十本以上の獅子プロダクション製作・にっかつ配給のポルノや、内田裕也氏との共作で86年度毎日映画コンクール脚本賞を受賞した「コミック雑誌なんかいらない!」などの脚本を執筆。近年、小説執筆に取り組み、「6000フィートの夏」で、平成5年度第73回オール讀物新人賞を受賞。1994(平成6)年7月19日心不全のため、大阪茨城市の仕事場にて逝去。享年38歳だった。 高木功「百年、風を待つ」東京創元社より)

オール讀物新人賞への応募作は「百年、風を待つ」であったが、編集部の意向で「6000フィートの夏」と改題して発表され、高木の没後、出版に当たっては「百年、風を待つ」に戻る。

ピンク映画関連エントリ

ピンク映画と国映・佐藤啓子専務」「ラストショー / 亀有名画座」「櫻の園/コミック雑誌なんかいらない/NCP」「立石ミリオン」 


百年、風を待つ

百年、風を待つ

*1: この座談会は滝田の他、カメラマン志賀葉一・螢雪次朗・小山正(←誰?)による。