虹の彼方


夜の学校「トゥナイト2」のMCはすでに斎藤陽子だった。二十世紀、夏、深夜。西武新宿線都立家政駅の北口にある古本屋で、電気グルーヴ「DRAGON」の中古と一緒に買ったと記憶する。「別冊宝島143競馬名馬読本」。いまだに表4には400円の値札が貼ったままになっている。
「DRAGON」を聴きながら「信長の野望」だかなんだかに明け暮れ、つかれると「競馬名馬読本」をめくった。つまらない生活だった。「DRAGON」の最終曲「niji」の、長い長いイントロと石野卓球のパートを終えて、4分40秒、五島良子の儚げな声が流れはじるのだけが希望だった。いや、もうひとつの希望があった。「競馬名馬読本」の、山本隆司「虹の彼方の希望 オーバーレインボー*1である。出身地が同じで、おまけに麻雀と競馬と映画に憑かれた山本隆司に、自らの希望をむりやりに見つけ出そうとしていた。ようするに愚か者であった。いずれにせよ、本書収録の杉作J太郎「ボンクラ族最後の砦 キョウエイプロミス」と山本隆司のそれは、私にとっては永遠の、だらけた青春譚であり、「ぼくのなつやすみ」である。


別居する時、家を出たのは、ボクのほうだった。彼女は京都府相楽郡木津町で生まれ、ボクたちは彼女の両親の家の裏のアパートに住んでいたため、ボクが出ていくしかなかったのだ。ボクは友人の車にわずかばかりの荷物を積んで出ていった。青春のバイブルだった雑誌「映画芸術」もみんな放棄した。あんなみじめな気持になったのは、生まれて初めてだった。*2

燃えるゴミの日の朝、道端の縛られた週刊プロレス競馬ブックを見ると、ああ誰かの青春が終わったんだなと想う。


新しい住まいは大阪のド真ん中、南森町で未亡人が経営するアパートに決まった。隣の部屋には独身のカメラマンがいて、深夜になると彼は山崎ハコの歌を聞いていた。

私に山崎ハコを教えてくれたのは高橋伴明「愛の新世界」だった。朝方の渋谷を走る鈴木砂羽片岡礼子が眩かった。


ボクは関西に最後の別れを告げるため、5月4日、阪神競馬場に出かけた。五月晴れの素晴らしい天候だった。くすぶった春が終わり、世界は光り輝いていた。

東京を離れるはめとなったならば、最後の週末、昔みたいにJR飯田橋駅から水道橋まで歩き、そこの場外、A館の最上階で、熊沢や角田や村本のハズレ馬券を買い、ダンキンドーナツを喰って、アテネフランセムルナウでも見て、お茶の水ディスクユニオンでぱかぱかして、暮れ方の聖橋を。


ボクのお目当ては、阪神競馬場のレースではなく、その日、東京競馬場で行われるNHK杯にあった。東はモンテプリンス、西は無傷の3連勝で東上したレッドジャガーが出走していた。ボクの関心はその両馬ではなく、オーバーレインボーという馬にあった。(略)ボクより先に東上したこの馬に、ボクは、ボク自身のこれからの運命をダブらせていた。1着はモンテプリンス、(略)その5着にオーバーレインボーが入っていた。彼はダービーの出走権をもぎ取ったのだ。
その時ボクは、もしかするとボクの将来にも幸運が待っているかもしれないと思った。オーバーレインボー、……虹の彼方に! あれから11年、ボクはオーバーレインボーという馬を通して、自分の中に虹を見ることができたと思っている。

その後、オーバーレインボーはダービーに出走し、13着に終わる。山本隆司は上京してベースボールマガジン社に入社、週刊プロレスの編集長となる。


DRAGON

DRAGON

*1:"オーバーザレインボー"でないのは、競走馬の文字数制限のため。

*2:引用箇所はすべて別冊宝島143競馬名馬読本」収録の山本隆司「虹の彼方の希望 オーバーレインボー」より