永遠に未来 〜昭和67年11月1日

抜け出そうにも抜け出せない。抜け出したい気さえ失せちまう。で、思いきって抜け出す。すべてご破算にして。そのなれの果てが、いまの俺だ。じっと座って雨音を聞いている。」 (チャールズ・ブコウスキー「パルプ」231頁)

私の過去・現在・未来のすべてがここに書かれている。

田舎者のため、東京に行けば世界が広がり、何かが勝手に始まるものだと想い込んでいた。けれども自ら始めようとしない限り、なにも始まりはしない。もちろん私は自ら何も始めはしなかった。 (「終わっていながら終われずにいるニンゲンにとっての『キッズリターン』」2011-02-20

百人町の雑居ビルの2Fにエロ本屋が見えた。こんな土地のあんなところにあるのだから裏本屋に違いないと想った。しかしそこには裏本など売ってはおらず、仕方なしに桃瀬くららのヌード写真集を買って帰った。それが東京での最初の消費であった。あの日から、ずっと私は何かが始まるのをただ待っている。


ところで一体、私は何を待っているのであろうか?


その騎手は、終わっていながら終われずにいたに違いない。ダービーを二度も制したほどの腕前をもちながら、さる嫌疑によりすべてを失う。すっかり乗鞍も減り、居場所を失い、忘れ去られつつあった。そんなオールドジョッキーに手を差しのべる調教師がいた。彼はその騎手と同郷であり、ファンだったのだ。騎手の名は大崎昭一、調教師は橋口弘次郎という。

天皇賞にいこう」 レッツゴーターキンなる馬で、福島のなんでもない競走を勝った後、大崎はそう言い出す。大崎はもう大きな競走を十年以上も勝っておらず、橋口はいまだにG1勝利なし。馬だって重賞を勝った事があるとはいえ、それは数年前、しかもローカルでの話であった。

そうして迎えた天皇賞、馬券になじみのない者でも名前くらいは聞いたことがあるかもしれないトウカイテイオーが1番人気、G1馬のダイタクヘリオスメジロパーマーが共に逃げあい、驚異的なハイペースとなる。直線、一端はトウカイテイオーが先端に立つも、それも刹那。大外から大崎昭一を背にしたレッツゴーターキンが飛んでくる……。

なんて書いてみるが、私はこの競走を見ていない。その当時はまだ、場外馬券売り場もない地で暮らしていた。豊といえば武豊ではなく今村豊…そんな土地で暮らしていたのである。だから私にとってこの大崎昭一の物語は、母親にしつこく聞かされた郷土の英雄・池永正明のそれと同様の、神話のようなものである。と、同時に始まることなく終わっている自分の行く末に、ひょっとしたらあるかも知れない一縷の希望として夢見る物語である。そう、大崎昭一レッツゴーターキンの夢の。


昭和67年11月1日、私にとってその日は過去ではなく、永遠に未来なのである。


立教大学


立教大学(東京都豊島区)


湿っぽい学生会館で朝まで麻雀をうち、世間が出勤・通学する頃になってそろそろ帰るかとお開きとなる。飯田橋駅に向かうわれわれとは反対に、飯田橋駅からやってくる白百合女子の、その小中学生たちの白いブラウスがまばゆかった。雀牌の白とは同じ白でも随分と違うそれだった。

そこには年に数回、警察が突入してきていた。屋上から靖国神社に向けて金属弾を飛ばしたり、運輸省幹部宅に時限発火装置をしかけた旨の犯行声明が貼られたりしているのだから、当たり前である。

そんなところとはまるで違う世界。

「カクマルセンメツ」「前進を購読しよう」と書かれたタテ看板も、中曽根訪韓絶対阻止とペンキで書かれた古い落書きもない世界。田舎の工場労働者の息子にはいささか敷居が高い世界。…人生に対して肯定的なそれに想えた。私には夢の世界に想えた。








結局のところ、私の人生の最高潮の時というのは、コルベットを買った時ではないか。グランツーリスモ4での話であるが。


横須賀美術館(神奈川県横須賀市

ネットにある鬱病の診断をすると、満点近くになるのである。その質問の多くに「ここ2週間〜」との枕詞がついているのだが、ここ2週間どころか、小学校に上がる前から、寝付きが悪くて、不安で…の私は、いったい何なのであろうか。

ただでさえ不安でしょうがない私を、さらに会社が追いつめる。その元凶はケータイである。

その昔、大井川鉄道にひとりロケハンにいった。日帰りで3回くらい出かけたか。ボーダフォンは圏外であったため、誰からも電話がかかってくることはなくて、河川沿いの桜並木や茶畑を気ままに歩くことが出来た。いくら何でもそんなところで撮らないだろうというところまで歩き、スチールで抑えてまわった。あの時のロケハン写真を手元に残しておけばよかったと時折、想う。

ただでさえケータイで捕捉されているというのに、twitterなどまで実名アカウントであったら、逃げ場がなくなってしまうではないか。おまけに退職後も、捕捉されるのである。だからネットの世界くらい競走馬の名前にさせて欲しいのだ。

連休もいつもと変わらることなく仕事の不安に追いつめられている。同じ会社にあっても、高学歴で人生がうまくいっているニンゲンは金曜日を有給として6連休だなんだで呑気に旅行などに出かけているが、私はといえば打合せだなんだで仕事三昧である。結局のところ、中谷なんとかやシャインズの片割れの就職本を読んだり、合同説明会やらなんやらに出かけたりしたニンゲンには、そのご褒美として連休のある生活を得ていて、場外馬券売り場に逃げ込んだ私はその罰を自らの人生を通じて受けているのに違いないのである。自業自得と言われれば、黙ってうなずくより他にないのは承知している。

この山本理顕の傑作を前にしてもなお、不安はやまず、ケータイが鳴るのに怯えていなければならない。私はほんとうに不仕合わせを生きている。


Blue Valentine

生きるということ。そして死ぬということ。誰ひとりそこから逃れることはできない。私たちはこの世界にたった一人でやってきて、たった一人で去っていくのである。そのほとんどが寂しく、おびえて、人生の大半を無駄に送るのだ。 (ブコウスキー「狂った生き物」より)

この映画の人生も例外ではないようだ。「ブルーバレンタイン」、口唇性愛をさせそうな男*1の子供を身ごもった女は、口唇性愛をしてくれる男と結ばれる。けれども結局、うまくは行かない。そんな映画である。

映画の冒頭、男は娘と一緒になって、テーブルに直接乗せたレーズンを手を使わずに食べて遊ぶ。女はそれを嫌がる。この些細なシーンに、女と男の間の、どうしようもない溝が描かれている。決定的…という程のものではなく、違和感をうむ程度の、である。この程度がこの映画の妙である。だから、ふたりは時間をかけて瓦解していく。たいしたプロットポイントも持たずに瓦解していくのである。

この映画で面白いと想ったのは、会話の中心者をフレームの真ん中に収め、会話の相手をフレームの外に置くことで、その会話があたかもインタビューのように機能するカットが幾つかあって、告白を強いていく仕掛けとなっている。そのようにして、劇的にではなく、なにげなくふたりが出会う以前の来し方を観客に見せていく。

時間が本当に もう本当に / 止まればいいのにな / 二人だけで 青空のベンチで / 最高潮の時に ハイロウズ「青春」より)

夜の路地、店頭のハートの形をした飾りの前で、女は男の弾くウクレレに合わせて、でたらめなタップダンスを踊って見せる。そのシーンはまさにそんな最高潮の時に想える。見ている私までずっと見ていたい、そんな気にさせるほど、仕合わせに充ちたシーンである。

性愛や求婚でないシーンが最高潮の時だなんて、素敵な映画ではないか。

ここから先は違う話

封切り日にこの映画を見たのは、会社にいる映画出身者がこの映画の画を賞賛していたからである。長玉で人物を追っかけまわす、その映画らしい画の素晴らしさを、である。

最初に入った会社はCMをこしらえる会社であったのだが、最初についたプロデューサーは、CM制作会社から映画の助監督となり、再びCMに舞い戻った男であった。大嫌いであったのだが、彼から聴いた話を忘れられずにいる。

それはこういう話である。映画の撮影現場にて彼はカチンコを入れていた。そのシーンは尻ボールドであった。よーいアクションでカチンコを入れるのではなく、すなわちカットの頭でカチンコを打つのではなく、カットの終わりでカチンコを入れるのである。複数の出演者の演技を長玉のズームアップで追っかける、そんなシーンである。画コンテがきっちりと書かれて、おまけにたいして廻さないCMと違い、カメラは自由に動き、1テイクが何十秒に及ぶ、そんなシーンであった。

カット!といわれる度に、彼はカチンコを差し出すのであるが、撮影技師より「そこじゃない、もっと上手!」などと、カチンコを入れる場所を指示される。何テイクも見当違いなところにカチンコを差し出してしまう。カメラがどこをフレーミングしているのか分からないためである。喋っている出演者をカメラが追っていれば、どこを撮っているかは容易にわかるのであるが、そのシーンのカメラの動きはそうではなかったのである。

そうして撮影後、「演技をちゃんと見ていないから、おれがどこを撮っているかわからない。だからカチンコを変なところに入れてしまうんだ」と撮影技師に言われるのであった。

それだけの話である。それだけの話であるのだが、このような話の積み重ねが、私の映画に対する畏敬になっている。撮って3日の世界のニンゲンにとって、ひと月以上撮り続ける連中への畏敬である。


[類似エントリ]「映画・CM・映像」(2009-09-06)

*1:実際はレスリングの練習の後、汗だくのまま女に接吻をし、暮れ方にジーンズから性器だけを抜き出して立ちバックで性交する男である

漫画ローレンスの匂いを求めて


○2011.04 手賀沼(千葉県柏市


「沼」というものを見たことのない私は、淫靡な匂いをそれに期待していた。なにしろ沼である。「ぬまっ」であるのだから。

いわゆる「男好きのする顔」、そういう女が好きであるのだが、それに気付いたのは伊丹十三タンポポ」の黒田福美によってである。役所広司の情婦役の女である。中学の頃、歳の離れた姉にこういう顔を「男好きのする顔」というのだと教えられて以来、私の女性の好みは「男好きのする顔の女」である。

漫画ローレンス。この雑誌の表1はいつも「男好きのする顔」である。裏切ることなく「男好きの顔」である。現代日本において、この言葉を表象している点で、現代アートといえる。そうだ、沼はきっとこの雑誌の表1と同じ匂いがするに違いない。私はそんなふうなことを想いながら常磐線で千葉県北部へ向かった。

手賀沼。漫画ローレンスの匂いを求めてJR我孫子駅を降りる。 …森に入り、しばらく歩くと足場が悪くなる。そうして抜けた先に「沼」が現れる。なんだかよくわからない種類の小動物の死骸が水辺に浮かび、みかんの皮を灰皿代わりにしている老人がトランジスタラジオで競馬中継を聴いている。…そんな場所を期待していたのだが。

実際はなんと言うことはない。幹線道路沿いにそれはあり、石神井池よりも ずっと健康的な湖である。おまけに家族的ですらあるではないか!




上智大学


この写真に2011.03.14などと日付が入っていたらば、ひとはそれを見て、東北地方大地震への追悼とみなすだろう。しかし、実際にはこれは昨年のクリスマスだかクリスマスイブだかの上智大学である。

この写真に「pray for japan」とキャプションが添えられれば、ひとはそれを見て、東北地方大地震への追悼とみなすだろう。しかし、実際にはこれに添えられるべきは「Merry Christmas」なのである。